ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第370話 競馬の馬券の所得区分と必要経費論争

序文・賭け事と税金の違和感

                               堀口尚次

 

 国税庁のホームページによると、『競馬の馬券の払戻金が一時所得と雑所得のいずれに該当するか、外れ馬券の購入費用が必要経費として控除できるか、が争われていた裁判において、①最高裁平成29年12月15日判決は、本件の競馬の馬券の払戻金については、馬券購入の態様や利益発生の状況等から雑所得に該当し、外れ馬券の購入費用は必要経費に該当する。②東京高裁平成28年9月29日判決(最高裁平成29年12月20日上告棄却)は、本件の競馬の馬券の払戻金については、馬券購入の態様や利益発生の状況等から一時所得に該当し、外れ馬券の購入費用は必要経費に該当しない。と判断しました。

 競馬の馬券の払戻金の所得区分については、馬券購入の期間、回数、頻度その他の態様、利益発生の規模、期間その他の状況等の事情を総合考慮して区分されます。
 具体的には、馬券を自動的に購入するソフトウエアを使用して定めた独自の条件設定と計算式に基づき、又は予想の確度の高低と予想が的中した際の配当率の大小の組合せにより定めた購入パターンに従って、偶然性の影響を減殺するために、年間を通じてほぼ全てのレースで馬券を購入するなど、年間を通じての収支で利益が得られるように工夫しながら多数の馬券を購入し続けることにより、年間を通じての収支で多額の利益を上げ、これらの事実により、回収率が馬券の当該購入行為の期間総体として100%を超えるように馬券を購入し続けてきたことが客観的に明らかな場合は、雑所得に該当すると考えます。
 なお、上記に該当しないいわゆる一般の競馬愛好家の方につきましては、従来どおり一時所得に該当し、外れ馬券の購入費用は必要経費として控除できませんのでご注意ください。』とある。

 そもそも賭け事に、税金論争が持ち上がる事自体がナンセンスなのか。本来賭博は違法であり、税金どころか法律の外での出来事なので、収入に関するルールなどない。公営ギャンブルの競馬の場合は、寺銭(てらせん)〈控除率〉と当選券に所得税や住民税がかかることに問題があるようだ。ギャンブルは稼ぐための職業ではなく、趣味嗜好の範囲を超えると、課税対象になることが判決から読み取れる。かつての博徒が聞いたら嘆くだろうか。

 

第369話 政令指定都市の課題

序文・権限と役割は違うはず

                               堀口尚次

 

 政令指定都市は、地方公共団体の一つ。法廷人口が50万人以上で、なおかつ政令で指定された市のこと。名古屋市大阪市横浜市などがこれにあたる。地方自治法において、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、事務で広域にわたるものを処理するが、政令指定都市は一般の市町村や中核市と比べて都道府県の権限の多くを委譲される。

 昭和31年に運用が開始された。これに先立つ昭和22年、国は大都市が府や県から独立する特別区制度を設けたが、権限を奪われることになる府県が猛反発、これに代えて権限の一部だけを府県から移す制度として設けられたのが政令市制度であった。指定都市は、条例で区を設けるものとされている。この区は、東京都の特別区〈東京23区の各区〉と区別して、「行政区」と通称される。

 政令指定都市都道府県からの権限の移譲等により、都道府県に準じた権限を行使することが可能で、都道府県との間の手続き等を経ることなく、都市独自の施策を実施することができる。具体的には、県を通さずに直接接触できるようになる。

 通称「区役所」の長は地方公務員であり、当該指定都市の職員の中から市長が任命するのが通例である〈各市の行政組織によるが、一般的に局長クラスまたは部長クラスの役職〉。因みに、東京都の特別区の区長は、選挙で選ばれる政治家である。

 指定都市は各分野につき、完全に独立した行政を担当できるまでの事務移譲を受けるわけではなく、農林行政、防災行政については、ほとんど授権がない。一方で、都道府県と指定都市との間では、一部につき共通する行政を担当することから、両者の間での二重規制、二重行政に陥る可能性が指摘されることがある。法令上、指定都市は、一部の特例措置を除いては、一般の市町村と同列の制度の適用を受けるため、都道府県が市町村の行政を審査する行政不服審査制度に関する事項など、両者の関係についてあいまいな部分もある。新たな法令を制定することを通じ、都道府県に指定都市に対する勧告権を付与し、指定都市内の行政に関する関与権限を弱める案などが提唱される。

 維新の会などは、これらの二重行政を根絶すべく道州制の是非を問いている。 

 

第368話 女王蜂の不思議

序文・君臨すれども統治せず

                               堀口尚次

 

 女王蜂は、群れで生活を行う真(しん)社会性〈動物の示す社会性のうち高度に分化が進んだもので集団の中に不妊の階級を持つことを特徴としハチやアリなどの社会性昆虫などに見られる〉を有するハチの集団において、繁殖に携わるの個体のことである。その群れの中で中心としてに単身で君臨するように見えることに由来するが、実際には群れを統率するというような行動や役割を有するものではなく、生物学的には生殖虫という。

 例えばミツバチ女王蜂の幼虫は4月~6月頃に巣の下端に作られる王台と呼ばれる独特な巣房中で育成され、ローヤルゼリーを大量に与えられる。ローヤルゼリーに含まれるロイヤラクチンが女王蜂分化を誘導する。産卵能力を持たない働き蜂に対して、女王蜂は大型で産卵機能のみが発達している。そのため、女王蜂は採集行動は一切行わず、産卵が主な仕事である。ミツバチの女王蜂は1分間に2個、1日で2000個の卵を産む。

 また、女王蜂は9オキソデセン酸を主成分とする女王物質を分泌して、働き蜂の卵巣の発達を抑え、集団の求心力となる。女王物質の生産能力が落ちると新たな女王蜂が誕生し、古い女王は別の場所に移って新たな巣を作る。同時に複数の女王蜂が育った場合、先に羽化した女王蜂が別の女王蜂を殺す。

 創作等では女王蜂と王蜂が巣に君臨しているように描かれる例もあるが、雄蜂は繁殖期以外にはあまり現れず、繁殖期を過ぎると働き蜂によって追い出される。

 これほどイメージと実像が違うのも珍しいと想い筆を執った。蜂の世界では、まさしく女王蜂様が君臨しており、下々(しもじも)の雄達が働き蜂としてせっせと働かされているものだと思い込んでいた。なんと働き蜂も繁殖能力を持たない雌蜂だったのだ。雄蜂は雌蜂より誕生する割合が極端に少なく、蜜の採取や巣作りなどにも参加せず、他の巣で育った女王蜂と交尾ができるまで、毎日結婚飛行に出かけ、交尾に成功した雄蜂は、生殖器をメスの体内に残したまま腹部をちぎり取られて死んでしまうという。なんという運命だろうか。

 昆虫の世界をほんの少しだけ垣間見てきたが、それは恐ろしい身の毛もよだつ世界だった。嗚呼人間に生まれてよかったなあとつくづく感じた次第でした。

 

第367話 軍隊ラッパ

序文・郷愁と哀愁

                               堀口尚次

 

 日本にラッパが紹介され持ち込まれたのは幕末で、慶応元年にイギリスの歩兵操典〈英国歩兵練法〉が翻訳された際に、信号喇叭(らっぱ)譜が紹介された。明治に入り近代軍隊設立のため、フランス軍に範をとった陸軍が招聘(しょうへい)した軍事顧問団によってフランス式の喇叭譜およびフランス式ビューグルがもたらされた。

 昭和5年帝国陸軍は新喇叭である九〇(きゅうまる)式喇叭を制定し、これは軍隊喇叭の代名詞的存在として第二次世界大戦終戦まで広く用いられることとなる。旧制式との変更点は二環巻で大型であった旧制式喇叭を三環巻かつ小型に、朝顔部分などを補強、「万国国際標音の新音調を採用」のために音調を半音低くし、吹奏を容易にしたことであった。なお九〇式喇叭は海軍でも使用されており、銃火器を除き数少ない陸海軍の共通装備であった〈陸軍と異なりウール製の布である握巻は巻かない〉。

 「起きるも寝るも皆喇叭」と言われたように、陸海軍共に軍隊生活は起床から消灯まで喇叭の音と共にあり、喇叭譜に歌詞をつけて口ずさまれるほどに親しまれ、元将兵の多くは喇叭の音にある種の郷愁のようなものを抱いている。なお旧陸軍では「楽な任務」として「一にヨーチン、二にラッパ」と言われていた。※ヨーチンとは衛生兵〈医療業務〉のこと

 帝国陸軍におけるその一般的な歌詞は次の通りである〈なお部隊や時期ごとに無数のバリエーションがあるため、これはあくまでも一例である〉。

・起床:「起きろと言ったら皆起きろ 起きないと隊長さんに怒られる」

・消灯:「新兵さんは辛いんだね また寝て泣くのかね」

・突撃:「出て来る敵は 皆々倒せ」「出て来る敵は 皆々殺せ」

・食事:「一中隊と二中隊はまだ飯食わぬ 三中隊はもう食って食器上げた」

なお、喇叭譜「食事」は帝国陸軍の喇叭を社章(「ラッパのマーク」)とする大幸薬品正露丸CMで使用され、喇叭譜「突撃」は通称「突撃ラッパ」として共に広く知られている。

 私の親父は軍人ではなかったが、嗜好で軍隊ラッパを独学習得し、戦友会などに乞われて吹奏を行っていた。そのせいか私も音色や音階に哀愁を感じる。

 

第366話 内部留保

序文・富の再分配の難しさ

                               堀口尚次

 

 企業の純利益から、税金、配当金、役員賞与などの社外流出分を差し引いた残りで、「社内留保」ともいう。ひらたく言えば「企業の儲けの蓄え」のことだが、会計上は「利益準備金」「任意積立金」「繰越利益剰余金」などの項目で、貸借対照表の純資産の部に計上される。これまで外需拡大の恩恵に浴してきた日本企業、とりわけ輸出型製造業の内部留保は、欧米の企業に比べてきわめて厚いと指摘されている。実際、製造業大手2200社の利益剰余金は約72兆円(2007年)で、景気低迷期(02年)の55兆円から大幅に増加。一方、従業員の給与は22兆円から21兆円へとダウンしている。このため、景気後退局面に入った頃から、企業が抱える巨額の内部留保を労働者に還元すべきという論調が見られるようになった。当初は共産党や労組が主張していたが、雇用不安が深刻になった08年末~09年にかけて、政府閣僚からも同調する声が相次ぎ、雇用維持の財源として論じられるようになった。なお、企業は内部留保のすべてを現金(手元資金)として保有しているわけではない。本来、内部留保は設備拡充や技術開発などの再投資に回される性格のもので、12兆6千億円の連結利益剰余金をもつトヨタもその多くを設備増強に投じており、現預金は6分の1程度しか残っていない(08年9月末時点)。通常、企業が銀行から融資を受ける際には内部留保の厚みが重視される。戦後最悪と言われる不況下において、手元資金の枯渇や財務悪化による経営破綻を恐れる企業が増えており、内部留保を雇用維持の財源に充てることには消極的と見られる。

 しかし素人が考えても分かる通り、自分の会社で儲けた利益をどう使うのかは、その会社の自由だ。経営者からすれば、給料が安く〈労働分配率が低い〉て済むのであれば、これにこしたことはないだろう。但し給料が安ければ従業員は離れていくもの。設備投資や研究開発に資金を回さないのであれば、その会社は発展しないだろう。それもこれもその会社が決めることであり、内部留保は会社の自由であり、それが資本主義の仕組みであり、需要と供給のバランスを崩せば、自然と市場から淘汰される仕組みのはず。

 政府が民間企業の内部留保をあてにして、労働分配率の引き上げに加担するなどは、社会主義の考え方ではないだろうか。家庭においても、貯金〈内部留保〉とおこずかい〈労働分配率〉の駆け引きがあるのだ。

 

第365話 土用の丑の日

序文・いつたべても美味しい

                               堀口尚次

 

 土用の丑の日は、土用の間のうち十二支が丑の日である。「土用」とは五行思想〈古代中国に端を発する自然哲学〉に基づく季節の変わり目を意味する雑節(ざつせつ)〈節分・彼岸・八十八夜など季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のこと〉で、四季の四立(しりゅう)〈立春立夏立秋立冬〉の直前の約18日間を指す。この期間中の丑の日は、年に平均6.09日あることになる。

 一般には、夏の土用の丑の日のことを、単に土用丑の日と言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日〈平均1.57日〉あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑二の丑という。

 春の土用の丑には「い」、夏の土用の丑には「う」、秋の土用の丑には「た」、冬の土用の丑には「ひ」の付く食べ物をとると良いとされ〈土用の食い養生〉、特に夏の土用の丑の日には鰻を食べる風習が江戸時代からみられる。

 鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、「讃岐国出身の平賀源内が発案した」という説が最もよく知られている。しかし、平賀源内説の出典は不明である。源内説は細かなバリエーション違いがあるが、要約すれば「商売がうまく行かない鰻屋〈知り合いの鰻屋というパターンもある〉が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴いた。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着した」というもの。丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではないが、一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には瓜、梅干し、うどん、うさぎ、馬肉〈うま〉、牛肉〈うし〉などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。

 実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できるとされているが、栄養価の高い食品で溢れる現代においてはあまり効果は期待できないとされる。そもそも、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期であり、夏のものは味が落ちるとされる。まあ、商売繁盛で考え出した商人の勝ちですなぁ・・・

 

第364話 ミスコン廃止に思う

序文・臭いものに蓋をする文化

                               堀口尚次

 

 過日テレビのニュース番組で「ミスコン廃止」に関する話題を取り上げていた。視聴する中で、若干の違和感を持ったので筆を執った。

 ルッキズムとは「looks〈外見、容姿〉+ism〈主義〉」すなわち外見至上主義外見によって人物の価値をはかることをいい、「容姿の良い人物を高く評価する」「容姿が魅力的でないと判断した人物を雑に扱う」など、外見に基づく蔑視を意味する場合もある。

 外見や見た目の良し悪しといった視覚的情報によってその対象〈自分自身を含む〉を価値づける行為は、人類の「美」や「道徳」に対する価値観に迫るものであり、これまで数々の議論がなされ、否定あるいは容認されてきた。また外見的魅力の高低が評価や社会的行動にさまざまな影響を及ぼすことは、これまで様々な研究により指摘されてきた。

  しかしちょっとまてよ、「外見によって人物の価値をはかること」が悪いことだという普遍的な価値観は誰が植え付けたのだろうか。勿論、外見によって人物の価値をはかることは、人として卑劣な行為であることは自明の理だ。但し、そのことを標榜している「ミスコン」の場合は、主催する方も、出る方も、見る方も了解済みではないのか。コンテストで優勝した人が、人間的に素晴らしい人格者でもなければ、特に優れた人間でないことは了承済なのではないか。

『あえて外見だけによって人物の価値に優劣を付けるコンテスト』があってもいいじゃないか。そんなこと言い出したら、スポーツだって記録〈外見〉で人物の価値をはかっていることは同じである。

 人に優劣をつけてきたことが、人類の歴史だと思う。問題は、どういう判断基準で優劣をつけているかを、見極めなければならないということだと思う。差別や偏見なども、この判断基準が曖昧になって生まれた経緯が否めない。文化や長い歴史のなかで育まれた側面もあろうが、『私より貴方のが劣っている』という普遍的な思考は歴然と存在すると思う。

 誤解を恐れずに筆を進めるが、マスメディアが差別用語を禁止したのは、道徳的な倫理観からではなく、外圧に対する自主規制に他ならないと思う。隠匿された言葉は巷(ちまた)で闊歩しているのだ。主催者は、問題点は隠匿するのではなく、公然と明らかにし、コンテスト運用の趣旨を啓蒙する義務があると思った。