ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第442話 申告故意四球に思う

序文・勝つための作戦

                               堀口尚次

 

 申告故意四球とは、野球のルールで、いわゆる「敬遠」のことだが、以前はピッチャーがわざとボール玉を4球投げてフォアボールとし、バッターを一塁へ進塁させる戦術であったが、数年前から監督が球審に申告することで、ボールを4球投げずに進塁させるルールに変更された。プロ野球はもとより高校野球でも採用されている。

 しかし私は、違和感を感じざるを得ない。勝負事は「勝つこと」が最重要課題であることは当然なのだが、他のスポーツに似たような概念の戦術が許されているものはあるのだろうか?長打力・高打率のバッターとは対戦しないとなれば、守備側に有利に働くことは容易に想像できる。ところがこれでは「スポーツマンシップ」というい概念や「精一杯に全力で勝負することの尊さ」はどこかへ吹き飛んでしまうではないか。

 高校野球にしてもプロ野球にしても、一回きりの試合をしている訳ではなく、トーナメントで勝ち抜いて優勝を目指していたり、長いペナントレースの勝率で優勝を勝ち取るために、許されたルールの中での戦術として、監督の判断で采配の一つとして活用されているのだろう。だが後味が悪い・・・。

 このことを象徴するような、珍しい出来事が先週あった。9回裏2アウトランナー1塁の状態で、次と次のバッター2者を申告故意四球で満塁としたが、次のバッターにフォアボールを出してしまい、なんと押し出しの「さよなら負け」という珍事だ。負けた日本ハムの新庄監督を責めるつもりは毛頭ないが、やはりこの戦術は不甲斐ない気がしてならない。

 特に白球に青春をかけて戦う、高校野球には必要ないのではないか。ヒットエンドランやスクイズなどの戦術は、逆に高校野球の醍醐味であり、力勝負だけでない、監督の戦術〈采配〉によるところが大きいが、それにしてもそのプレーを成功させているのは選手たち本人の技量であり練習の成果のたまものであろう。しかし、申告故意四球は、技量や練習の成果は関係なく、監督の采配ひとつにかかってしまう。ルールで認められているから、「勝つためには何をやってもいい」では、純真無垢な高校球児が白球を追う世界にそぐわないと思う。

 願わくば、高校野球だけでも「申告故意四球」制度を廃止し、力の限り白球を追いかける姿が観たいものだ。 

 

第441話 浮島丸事件の悲劇

序文・戦争の負の遺産は今も残る

                               堀口尚次

 

 浮島丸事件は、太平洋戦争終戦の日の後の昭和20年8月4日17時20分頃に、舞鶴港京都府舞鶴市下佐波賀沖300mの地点で、日本海特設運送艦浮島丸4,730総トン、乗組員255名が、3,725名4000人とする場合もあるの朝鮮向けの便乗者らを乗せて舞鶴港にて触雷沈没、乗組員25名戦死扱いと便乗者549名判明分の死者をだした事件である

 青森県大湊港より釜山へ向かう往路、連合軍の命令を受けて舞鶴に目的地を変更舞鶴港内で海底のアメリカ軍が敷設していた機械水雷の爆発により沈没した。沈没原因について様々な憶測を呼んだ事件だが、日本軍およびアメリカ軍の公式記録では共に海底の機雷の爆発〈触雷〉による沈没とされている。

 昭和20年、アメリカ軍は、日本の戦争遂行能力を喪失させる目的で、機雷による海上封鎖「飢餓作戦」を行った。使用された機雷は約11,000基で、主にアメリカ陸軍の大型爆撃機B-29によって敷設された。船の磁気反応や機関の音響、水圧変化など複数の作動パターンの機雷が混用され、しかも掃海を困難にするために1回目の反応では起爆しない回数機雷も使われた。日本海軍も必死に掃海に取り組んだが、複雑な仕組みと膨大な数のため困難で、670隻以上の艦船が撃沈されて海上交通は麻痺した。当時の舞鶴港は、舞鶴鎮守府が置かれた日本海屈指の軍港であったために重要な攻撃目標になり、磁気機雷、音響機雷が数多く敷設されていた

 昭和20年10月7日に神戸・魚崎沖で室戸丸〈355名〉、10月13日に神戸港沖で華城丸〈175名〉、10月14日には隠岐島勝本沖で珠丸〈541名〉、昭和23年1月28日に瀬戸内海牛島沖で女王丸〈304名〉など、戦後38年の間、139隻もの商船が触雷により沈没している。浮島丸以降の大型船5隻だけでも1,924名もの犠牲者を出している。

 飢餓作戦で投下された機雷は約6600個が日本周辺海域に残存し、戦後も日本の海運に影響を与えた。21世紀に入っても、海上自衛隊自衛隊法84条の2に基づく機雷処理業務を続けており、1999年から2008年にかけても年平均4個を処理している。アメリカ軍の飢餓作戦の影響は今日まで継続しているのだ。未だに不発弾処理のニュースが、度々聞かれるのも戦争の負の遺産なのだ。

 

第440話 能崎事件の禍根

序文・群集心理と鬼畜米英がもたらしたもの

                               堀口尚次

 

 能崎(のざき)事件は、昭和20年に起きたアメリカ軍兵士に対する私刑殺害事件。事件の呼称は第152師団長だった能崎清次陸軍中将からとったものである。事件現場が佐原町だったことから、佐原町事件とも呼ばれる。

 昭和19年後半から日本本土空襲が行われるようになった。硫黄島が占領された昭和20年3月以降、関東地方各地の都市は毎日のように米軍機による襲撃を受けるようになっていた。

 千葉県八日市場町上空にP51の編隊が襲来、機銃掃射などを加えた。やがて編隊は九十九里方面に離脱していったが、うち一機が迎撃に上がった日本軍戦闘機と交戦し被弾、久賀村に墜落した。撃墜された搭乗機の操縦士だったジョン・スキャンラン・ジュニア アメリカ陸軍中尉〈当時・24歳落下傘で脱出したが降下中に日本軍戦闘機から銃撃を浴び、降下した久賀村では村人や軍人から竹槍銃剣で刺され重傷を負い捕らえられた

 スキャンラン中尉は第152師団司令部が置かれていた佐原町立国民学校一部校舎にトラックで連行され、簡易治療を受けた後に捕虜尋問を受けた。その後、スキャンラン中尉は両手を縛られ、一部校舎裏手にある校庭に出された。町では「アメリカ兵が捕まった、小学校へ連れて行かれた」などという噂が流れ、次第に一部校舎に見物人が集まってきた。軍人は戸惑いと憎悪が入り混じった目でスキャンラン中尉を見つめる町民の前で「お前らの敵だぞ」と言い放って一部校舎に生えていた桜の枝を2本折ると、枝で2、3回中尉の体を叩いて見せた。それを見て一挙に興奮した町民達はその桜の枝を奪い合うようにして次々とスキャンラン中尉を叩いた。激しい憎悪に駆られ叩きつけたため桜枝はすぐに折れてしまった。そして身動きができないほどの町民が集まったため、4、5人の軍人たちは倒れ込んでいたスキャンラン中尉を起こし、学校橋対岸にある広い校庭へ引きずって行った。

 対岸の広い校庭には、さらに多くの町民が集まりはじめた。町民達の中には米軍機による度重なる空襲にさらされ身内を失ったり、戦地で身内を亡くした者も既に多く、「息子のかたき」、「父ちゃんを返せ」などと叫びながら、女性・子供・老人を中心とした数千人の群集が取り囲んだ。やがて町民の誰かが持ってきた竹槍や棒で代わるがわるスキャンラン中尉を叩きはじめた。校庭にあった朝礼台の上では拡声器を持って「もっと叩け、もっと叩け」と煽動(せんどう)する町民もいた。叩かれる合間に衛生兵がカンフル注射を2、3本打ったが、最後の注射には反応はなく息絶えた。それでも気の収まることのない町民はスキャンラン中尉を叩き続け、数時間余りの暴行のすえスキャンラン中尉は死亡した。

 中尉の亡骸は浄国寺に隣接する無縁仏を埋葬するための共同墓地に荒縄で縛られた状態で逆さまに埋められ、其の上には彼が履いていた靴が供えられた。

 GHQによる事件の本格的な調査は大戦後の昭和21年頃から行われはじめた。殺害に関係があるとみなされる軍人・町民をはじめ、町長や警防団長などの町の有力者が次々とGHQの事情聴取を受けた。町では「うかつにしゃべると、戦犯として進駐軍に引っ張られるぞ」と囁かれ、学校でも「一切このことについては言うな。言えばアメリカに連れて行かれ奴隷にされるぞ」と箝口令が敷かれ、町民の中には精神異常者を装い聴取を免れた者や、町民による流言や密告も行われた。

 横浜軍事法廷においても軍人・町民同士によって罪のなすり合いが行われるなど混乱を極めた。最終的に裁判では師団長の能崎清次陸軍中将、佐原町民7名には直接関与はないと認められて無罪となった。一方、スキャンラン中尉を司令部から出すことを許可した参謀長が重労働40年の実刑を受け、他の2名の軍人が重労働の実刑、他の町民4名が重労働1年の実刑を受け幕を閉じた。

 B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた。「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた。東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から私刑で暴虐な扱いを受けることが多かった。なかには能崎事件のように、一般市民によるリンチの末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた

【総括】戦争の恐ろしさ・愚かさ・醜さは、人間の行動に凝縮される。人間の隠れた本性が現れてしまったことは、あさましい限りだ。 

※新潟で高射砲により撃墜され捕虜となったB-29のクルー、住民にリンチされているところを軍に助けられている

第439話 鬼畜の小笠原事件

序文・戦争が生み出した狂気

                               堀口尚次

 

 小笠原事件は、昭和20年に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食(ししょく)した事件。父島事件とも。

 当時の父島は住民を疎開させた上で要塞化〈父島要塞〉されており、陸軍の混成第1旅団、海軍の父島方面特別根拠地隊が守備していた。

 1945年2月、まずは松末実郎海軍大尉が、独立歩兵第308大隊長の的場陸軍少佐を経由して入手した捕虜を、海軍において処刑し、独歩308大隊において、その遺体を大隊附軍医解剖させて、摘出した肝臓等を嗜食したという。 そして 同月、新しく捕虜となった2名の内、1名は陸軍にて立花旅団長の旅団命令によって処刑・嗜食したとされ、もう1名は海軍にて処刑され、父島方面特別根拠地隊通信隊司令吉井静雄海軍大佐らが特根通信隊において肝臓等を嗜食したという。また、23日には1名を立花陸軍少将の依頼により海軍において処刑・嗜食したとされる。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。

 第109師団参謀として司令部のある硫黄島から父島に派遣されていた堀江芳孝陸軍少佐は、立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜の将校を自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、3月26日、外出後に戻るとすでに処刑され森海軍少将・的場陸軍少佐らによって喰われた後であった。

 日本の敗戦後、9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方の調査を行い、的場大隊および関係者を拘束して事情聴取し、1946年2月に立花陸軍中将・的場陸軍少佐・森海軍中将・吉井海軍大佐、また酒宴に参加するなどしたとされる27名をBC級戦犯としてグアム軍事法廷にて起訴した。なお米軍は「人肉嗜食」ではなくあくまで「捕虜殺害」「死体損壊」として審理を行っている。その結果、立花・的場・吉井ら5名が死刑、森ら5名が終身刑、15名が有期刑となった。立花らは処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり激しく虐待され続けた

 事件の真相については、米軍捕虜処刑に立ち会った少尉の否定証言もある。

 

第438話 仙台四郎という福の神

序文・商人の原点かもしれない

                               堀口尚次

 

 仙台四郎は、江戸時代末期〈幕末〉から明治時代にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物で、「人神」としても祀られている。旧字体を用いて「仙臺四郎」とも書く。

本名は通説では芳賀四郎であるが、親族によれば「芳賀豊孝」。

 知的障害があり会話能力は低かったが、明治期に「四郎自身が選んで訪れる店は繁盛する」との迷信が南東北のマスメディアを巻き込んで流布し、売上増を企図する店舗等が四郎の気を引こうと厚遇した。

 没後の大正期に入ると、仙台市内のある写真館が「四郎の写真を飾れば商売繁盛のご利益がある」と謳って写真販売を始めた。商売繁盛のご利益は、存命中においては四郎の意志に依拠したが、写真による偶像化以降、〈死没した〉四郎の意志とは無関係になり、グッズを購買すればご利益が得られると転換された。大正9年からの戦後恐慌以降、繰り返し発生する不景気において四郎のブームが度々発生し、商業神の稲荷神やえびす、あるいは、土着の松川だるまを凌駕して仙台で信仰され、さらには全国的に知られる福の神として定着した。

 現状では民間信仰において神として崇められる一方、神であるか不明なキャラクター化も進んでおり、四郎が神と人との間で揺れ動く人神となっている。神としてのグッズ展開がある一方で、仙台市都心部密教系仏教寺院ではキリスト教におけるサンタクロース姿にさせて飾ったり、仙台初売りや一般企業の広告ではキャラクターとして使用されたり、四郎の風貌やエピソードを設定として用いて、芝居の興行をする俳優、コントをするお笑い芸人、芸能活動をするローカルタレントが現れたりもしている。

 四郎の知的障害には生まれつきという説と、7歳の時花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となったことが元で知的障害となったという説がある。言葉についても「バヤン」〈「ばあや」の意〉などとしか話せなかった説と、普通に会話も出来たとする説とがある。

 仙台四郎民間信仰であるため本来寺社とは関係ないが、仙台四郎を合わせて祀る寺社がある。

 

第437話 ゴーストップ事件

序文・軍人がいかに横柄であったか

                               堀口尚次

 

 ゴーストップ事件は、昭和8年大阪府大阪市北区天六交差点で起きた陸軍兵巡査の喧嘩、およびそれに端を発する陸軍警察の大規模な対立。「ゴーストップ」とは信号機を指す。

 満州事変後の中国大陸における戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、政軍関係がきかなくなるきっかけの一つとなった。

 昭和8年6月17日午前11時40分頃、大阪市北区天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休日に映画を見に外出した陸軍第4師団歩兵第8連隊第6中隊の中村政一一等兵〈22歳〉が、市電を目がけて赤信号を無視して交差点を横断した。交通整理中であった大阪府警察部曽根崎警察署交通係の戸田忠夫巡査〈25歳〉中村をメガホンで注意し、天六派出所まで連行した。その際中村が「軍人憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗したため、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、中村一等兵は鼓膜損傷全治3週間、戸田巡査は下唇に全治1週間の怪我を負った。

 騒ぎを見かねた野次馬が大手前憲兵分隊へ通報し、駆けつけた憲兵隊伍長が中村を連れ出してその場は収まったが、その2時間後、憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。この後の事情聴取で、戸田巡査は「信号無視をし、先に手を出したのは中村一等兵である」と証言、逆に中村一等兵は「信号無視はしていないし、自分から手を出した覚えはない」と述べ、両者は全く違う主張を繰り返した。

 この日、第8連隊長の松田四郎大佐と曽根崎署の高柳博人署長が共に不在であったため、上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなった。警察側は穏便に事態の収拾を図ろうと考えていたが、21日には事件の概要が憲兵司令官の中将や陸軍省にまで伝わり、最終的には昭和天皇にまで達することとなった。

 6月22日、第4師団参謀長が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、警察に謝罪を要求した。 それに対して大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により和解した。



 

第436話 アメリカ合衆国による沖縄統治

序文・今も残るアメリカ統治時代の名残

                               堀口尚次

 

 アメリカ合衆国による沖縄統治は、昭和20年のアメリカ軍による沖縄占領から、昭和47年の沖縄本土復帰に至るまでの、27年間に及ぶアメリカ合衆国による占領統治時代のこと。この間沖縄はアメリカ合衆国の地域として扱われた。

 サンフランシスコ平和条約には、アメリカ合衆国信託統治下に置くことに日本国が同意することが規定されたが、その後国連への提案はなされなかったため、日本は奄美諸島および琉球列島に対する主権〈潜在的主権〉を保持し続けることができた。昭和25年に群島政府を設置したが、翌年には琉球臨時中央政府になった。その後も琉球政府琉球列島米国民政府と改称された。

 アメリカは当初、琉球人は日本帝国主義に支配された異民族であると認識し、日本本土の一部でなく、日本が武力で制圧した島だと考えた。また沖縄人は自ら政治、経済を行えないという先入観から、沖縄人の自治能力を過小に評価していた為、沖縄における民主化に対して消極的であった。そのためにまず民主主義の基礎を築くことにし、市町村長、市町村議会の選挙を実施した。沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙で女性に参政権が認められ選挙が行われた。

 民政府は沖縄住民に対する文化政策を実施してきた。米軍は住民を独自の文化に誇りを持つ少数民族で、琉球処分後本土から差別・偏見を受けたと見られた。伝統文化を保護・継承させ、文化に対する自信と誇りを取戻し、独自のアイデンティティーを構築させる目的で始まった。またその政策により、良好な琉米関係を築けば本土復帰運動も収まるだろうと考えた。

 アメリカ軍は演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に集落と農地を強制的に接収した。特に現在の宜野湾市の伊佐浜の田園地帯と伊江島では集落ごと破壊され、大規模な土地接収が行われた。住民はこれらの様子を「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例え、アメリカ軍の強権の代名詞となった。またサンフランシスコ条約締結以降、軍政府は沖縄の本土復帰を唱える団体や運動を弾圧、さらに米軍兵による事件が相次ぎ、住民に反米感情が高まっていた。沖縄戦の影響で経済基盤が破壊された沖縄県では、通貨として日本円のほか、アメリカ軍の軍票であるB円が用いられた。日本本土との往来は、パスポートが必要となるなど制限が行われた。車両は本土とは異なり、車は右、人は左の対面交通〈右側通行〉だった。

※政治の中枢となった琉球政府・米国民政府合同庁舎