ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第449話 安部元総理の国葬に思う

序文・内閣府設置法が根拠

                               堀口尚次

 

 「信教の自由」と「国葬」がクローズアップされているが、憲法で保障されている信教の自由は、国民の権利として当然にある。血税である税金で賄(まかな)われる国葬に、疑問符が付くことに一定の理解は出来る。

 しかし死者を弔うことは、宗教なのだろうか。無宗教の人は死者の弔いが出来ないというのか。信教とは「信ずる宗教」のことであるから、特定の宗教を国家が指定するのは確かにおかしい。それこそ戦前の国家神道のような間違いが起こる。ならば「無宗教」で国葬をすればいいのではないか。勿論そうなるだろうが。

 地方公共団体などの行政機関や教育機関〈学校〉などの対応も様々だ。国としては、弔意などの強要ができないのはあたりまえだが、半旗掲揚などの通達を受け実施した教育機関もあったようだ。そもそも教育委員会は行政から中立の立場にあり、独自の判断ができるはずなのに、なぜそれほどまでに忖度してしまったのだろうか。

 問題は「政教分離」にもあるのだろう。政治と宗教は切り離さなければならない。しかし公明党創価学会〈仏教・日蓮宗系〉の関係はどうなっているのだろう。また昨今問題視されている、旧統一教会自民党の関係はどうなっているのだろう。世界の宗教と違い、日本人の宗教観は独特で、日常〈文化・伝統・土着〉に溶け込んだ慣習儀礼的な側面が、宗教にあるように思う。アメリカ大統領は就任の宣誓で神に誓うが、日本ではありえない。

 そもそも政党が出来たのは、税金の使い道を決めるための政策の違いから誕生したはず。また政党は立法府に属するわけだから、国葬を法律で定義するのが本筋だ。内閣は行政府において法律を執行する機関だ。予算の執行権を持つ国会は、法律をつくり内閣に執行させるという仕組みのはず。法律に基づかない予算の執行があってはならないのだ。

 安部元総理の国葬は、国の儀式開催を規定した内閣府設置法第4条第3項第33号を法的根拠として、閣議決定により実施されることになったようだ。背景には、安倍元総理の死後、弔問を希望する各国からの連絡が殺到し、外務省がその対応に追われる事態となる。また、自民党内や保守層から安倍の国葬を求める声が上がっていたことが考えられている。

 いずれにせよ、税金を沢山使う。やるからには無駄のないように願いたい。

 

第448話 天皇に叱責された総理大臣

序文・天皇の機微にふれたか

                               堀口尚次

 

 田中義一陸軍大臣→総理大臣〉は、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。

 このことを野党に批判され、立憲民政党中野正剛は、済南(さいなん)事件の責任を福田司令官に帰し、満州事件〈張作霖爆殺事件〉を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥(こうがんむち)であるとした。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したところ、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した。

 軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、昭和4年6月27日に田中は、関東軍張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇に奏上したところ、天皇「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼(きょうく)〈恐れかしこまる〉し、7月2日に内閣総辞職した。

 狭心症の既往(きおう)があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興(ふきょう)を買ったことはやはり堪(こた)えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞(ふさ)ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない昭和4年9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れが完全に途絶えた。

 昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した

 余談・タレントのタモリは、生誕時には田中を尊敬していた祖父によって「義一」という名をつけられる予定であった。しかし画数の多い「義」が上に来ると頭でっかちな子になるとされ「一義〈森田一義〉」となったとしている。

 

第447話 割腹した阿南惟幾陸軍大臣

序文・陸軍大臣としての責任を全う

                               堀口尚次

 

 阿南惟幾(あなみこれちか)は、陸軍軍人。陸軍大臣勲一等攻三級。昭和20年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初であった

 遺書には「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 【花押】 神州不滅を確信しつつ」と記されていた。「大罪を謝し奉る」とは、日中戦争から太平洋戦争に至る時代の指導者は陸軍軍人で、太平洋戦争責任の「大罪」は陸軍が負うべきと阿南は考えており、陸軍最後の責任者である自分の死をもって「謝し奉る」覚悟を記したものであった。辞世の句には「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」とあり、これは昭和13年の第109師団長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで陪食した際に、その感激を詠ったものである。

 阿南はひとり縁側で割腹した。義弟の竹下はそのとき、宮城事件の報告に来訪した憲兵司令官大城中将と面談していたが、真っ先に自決現場に駆け付けた林から阿南自決の事実を知らされると、すぐに阿南の元に戻った。既に阿南は割腹しており、左手で頸動脈を探っている状況であった。竹下が介錯を申し出たが、阿南は「無用、あっちに行け」と竹下を遠ざけた。その後、竹下は陸軍次官の若松からかかってきた電話に応対してから、阿南の様子を見に戻ったが、既に阿南は意識不明の様子で、弱い呼吸音だけが聞こえる状況であったので、竹下は阿南の手から短刀をとると、右頸部を深く切り込んで介錯した。その頃、井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ見ながら泣いていた。

 阿南を主人公的に描いた、半藤一利の『日本のいちばん長い日 決定版』を原作とし、これまで劇場用映画が2つ製作公開された。岡本喜八監督による1967年版〈製作・配給東宝〉と原田眞人監督による2015年版〈製作・配給松竹〉がある。

 

第446話 惟喬親王と木地師

序文・「君が代」の君

                               堀口尚次

 

 惟喬(これたか)親王は、文徳天皇の第一皇子。小野宮を号す。父・文徳天皇は皇太子として第四皇子・惟仁親王〈後の清和天皇〉を立てた後、第一皇子の惟喬親王にも惟仁親王が「長壮〈成人〉」に達するまで皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対を危惧した源信(みなもとのまこと)の諫言により実現できなかったとされている。

 木地(きじ)師(し)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。9世紀に近江国蛭谷〈現:滋賀県東近江市〉で隠棲していた小野宮・惟喬親王が、手遊びに綱引轆轤を考案し、周辺の杣人(そまびと)〈伐採や製材に従事した者〉に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀美の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた。

 近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師のなかには惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られる。日本の国家「君が代は作詞者不明とされてきたが、木地師の藤原朝臣石位左衛門が仕えていた惟喬親王に詠んだ歌という説がある。また、当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。

 惟喬親王主祭神として祀る神社が各地に存在する。木地師の伝承によると、近江国蛭谷〈現:滋賀県東近江市〉で隠棲していた小野宮惟喬親王が住民に木工技術を伝えたのが木地師のはじまりであるとする。これによって惟喬親王木地師の祖と呼ばれ、同地の大皇器地租(おおきみきぢそ)神社のほか全国の山間部で祀られている。また、北区雲ケ畑には惟喬神社がある。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。

 

第445話 久米島守備隊住民虐殺事件

序文・沖縄離島で起きた惨劇

                               堀口尚次

 

 久米島守備隊住民虐殺事件は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海守備隊による同島民の虐殺事件久米島事件とも呼ばれる。

 沖縄戦も終盤にさしかかった昭和20年6月、アメリカ軍はそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の日本海軍が久米島に設置したレーダーを管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま山中に撤退し、久米島は占領された。

 牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであった事に加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。拉致された住民はアメリカ軍の上陸時に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱いた。鹿山兵曹長はまず、アメリカ軍に拉致され降伏勧告状をもっていくように命令されて部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係〈郵便局長という説もあり〉であった安里を銃殺刑に処した。工作部隊によって拉致されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた

 兵曹長による刑罰はその後も続き、部下の兵士と義勇軍を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させ、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。また、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為〈戦前の刑法では罪となった〉であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。住民の中には鹿山と共に山に立てこもった者も少なくなかったが、戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、またアメリカ軍は「〈山から出て〉帰宅しないと山を掃討する」と伝達されていたうえ、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。なお、当時の島には3000戸の住宅と7073名の労働人口があったという。

 守備隊は一家4名を処刑したほか、さらには鹿山隊長は島の16歳の少女を連れ逃げまわる一方で、具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家を住民と部下に命令して惨殺した。この行為は日本が降伏した以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。

 昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人〈一説では29人〉となる。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。

 当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山海軍兵曹長〈事件当時32歳〉は、戦後の昭和47年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した

大島幸夫著の『沖縄の日本軍』によれば、一家を殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明した、いずれにしても、朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したとし、また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示されたとしている。

 これら一連の虐殺事件は、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。

 

第444話 福田村事件の背景に潜むもの

序文・地震がもたらした狂気

                               堀口尚次

 

 福田村事件は、大正12年9月6日、関東大震災後の混乱および流言(りゅうげん)蜚語(ひご)〈噂〉が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団15名が千葉県東葛飾郡福田村〈現・野田市〉三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名が殺害された事件である。

 大正12年3月に香川県を出発していた売薬〈当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など〉行商団15人は、関西から各地を巡って群馬を経て8月に千葉に入っていた。9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県にも戒厳令が敷かれ、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるために自警団が組織・強化され、村中を警戒していた。『柏市史』によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女一五人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるがはっきりせず、警察署に連絡する」「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。生き残った被害者の証言によると、関東大震災発生から5日後の9月6日の昼ごろ、福田村の利根川沿いで、休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団200人ぐらいが囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと次々と言葉を浴びせていた。福田村村長らが「日本人ではないか」と言っても群衆は聞かず、なかなか収まらないので駐在の巡査が本署に問い合わせに行った。この直後に惨劇が起こり、現場にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「棒やとび口を頭へぶち込んだ」「銃声が二発聞こえ」「バンザイの声が上がりました」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態を止めた時には、すでに15名中、子ども3人を含めて9名の命が絶たれており、その遺体は利根川に流されてしまい遺骨も残っていない。かけつけた本署の警察部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が生き残った。

 関東大震災の当日・翌日には、関東各地の警察が「朝鮮人に気をつけよ」「夜襲がある」などと官の側から流言蜚語をまき散らしたとされる結果、福田村周辺の自警団も「異常な事態に興奮状態にあった」という。

 

第443話 サッカーの紳士協定に思う

序文・ルールにない決まり事

                               堀口尚次

 

 サッカーでは、フェアプレーの観点から、相手選手が蹴り出したボールは返すというのが紳士協定として結ばれており、そのフェアプレーに拍手が送られるというのが通常だ。

 そもそも「紳士協定」とはウィキペディアによると、いわゆる不文律〈暗黙の了解〉の1つで、国家や団体、および個人間における取り決めのうち、公式の手続きや文書によらず、互いに相手が約束を履行することを信用して結ぶものをいう。であることからサッカーの場合、審判の判断によらず、選手同士の暗黙の了解であり、フェアプレイを担保するための美しい決め事なのだ。

 しかしながらこれは、あくまでも紳士協定であり、ルールではないので審判が判定を覆(くつがえ)すことはできない。だから紳士協定を破ったとしても審判は口出しできないのだ。

 ところが、先週のサッカーJリーグの試合で、とんでもない事が起きてしまった。なんとこの紳士協定を破ってゴールを決めてしまったのだ。ゴールを決められたチームの監督が猛抗議をしたが、前述の様に審判は介入できないので判定は覆せなかった。そこで両チームの監督が話し合った末、ゴールを決められたチームも1ゴールできる特別処置が取られることになり一件落着した。

 状況を整理して考えるとこうだ。サッカーでは、試合中に選手が倒れ込んだりして、プレイ継続が不可能な状態の選手が発生すると、見方でも相手側でもボールを一旦ピッチの外へ軽く蹴り出す。このことでゲームが一旦休止する。これは審判の判断によるものではなく、両チーム選手が自発的に行う行為として広く認識されていいる。怪我や体調不良の原因が解決〈選手交代を含め〉すると、ゲームが再開し、スローイングされたボールは、ボールをピッチの外へ出したチームのゴールキーパーまで戻され、ゴールキーパーのキックからある意味本当の意味での試合再開となる。これはルールブックにはないが、サッカーでの「紳士協定」として定着し、フェアプレーとして観客からの賞賛も得ているのだ。

 今回Jリーグで起こったことは、チーム・サポーターを含め批判などが流布されているが、当該チームは謝罪などもあり和解している。ルールを守るのは当然のことだが、ルールにはないが、紳士としての振る舞いも問われるのだ。