ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1572話 円筒分水

序文・農業用水紛争

                               堀口尚次

 

 円筒分水は、農業用水などを一定の割合で正確に分配するために用いられる利水施設。円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流、落下する際に一定の割合に分割される仕組みとなっている。地域によっては円形分水、円筒分水槽、円筒分水庫などとも呼ばれる。土木工事分野では「円筒分水工」と呼ばれる。原義は工事の名称だが、完工した設備についても同様に呼ばれる。

 サイフォンの原理などを利用して円筒中心部に水を導き、その水が円筒外縁部を越流する際に外縁部に設けた仕切りで分配するものや、外縁部に設けた穴の数によって分配するものなどがある。

 水田耕作が主体であった日本でも、各地で農業用水の確保にまつわる紛争〈水論、水争い〉が絶えず、大正年間より正確な配水が可能な分水樋が考案され、各地で似た構造の施設が造られ始めた。第1号の円筒分水工は可知貫一が発明したもので、大正3年に小泉村 〈岐阜県可児郡〉に設置された。

 当初は高低差を利用して導水する方式のものが造られ、昭和9年になると福島県や長野県などで地下から吹き上げる方式のものが造られるようになった。ただし長野県に造られた施設では円筒を使わず、分水樋の中央に吹き上げられた水が放射状に拡がる原理を利用したもので、流水量に偏りが生じるといった欠点もあった。

 上記の欠点を克服するために、円筒状に組んだコンクリート設備の中心にサイフォンの原理で導水し、円筒を越流させて分水する方式が考案された。この方式を採用したのが神奈川県川崎市高津区久地にある久地円筒分水〈国の登録有形文化財〉で、同地にあった二ヶ領用水の分水樋の改修に際し、昭和16年に造られたものである。この方式により平地の用水路でも正確な分水を実現できたため、以降、同様の方式のものが全国各地に造られるようになった。

 

 

第1571話 リトルボーイ

序文・原子爆弾「少年」

                               堀口尚次

 

 リトルボーイは、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島市に投下したガンバレル型原子爆弾のコードネーム。いわゆる「広島型原爆」である。

 人類史上初めて実戦で使用された核兵器であり、原子力災害〈核実験、原発事故など〉や自然災害〈地震、台風、隕石衝突など〉の規模を表記する際に、このリトルボーイを基準に「広島型原爆○個分」と換算されることもある。

 ガンバレル型は、核兵器の構造の種類の一つで、ヒロシマ型とも呼ばれる。核分裂反応の連鎖反応を引き起こす臨界状態を達成するために、砲身状の構造を用いる方法である。臨界量に達する核物質を分割したうえで砲身状の構造の両端に置き、火薬により一方の物質をもう片方へと衝突させ、臨界を達成、核爆発を生起させる。砲身型やガン・タイプとも呼ばれる。

 原子爆弾のコードネームは、プルトニウム原子爆弾に付けられていた。ガンバレル方式・インプロージョン方式のそれぞれに、Mark 2「シンマン」とMark 3「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバーだった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んでおり、Mark 2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男 〈原題:The Thin Man〉』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン〈Thin Man、痩せ男〉」と命名された。シンマンの開発は1944年に中止されたが、リトルボーイはこのシンマンの寸法よりもさらに小形になったため、サーバーとは別の人物によってリトルボーイ〈少年〉と呼ばれるようになった。

 

 

第1570話 ワード号事件

序文・真珠湾攻撃の序章

                               堀口尚次

 

 ワード号事件とは、1941年12月7日〈日本時間1941年12月8日〉に行われた日本海軍航空隊の真珠湾攻撃前に、アメリカ領海内で日本海軍所属の特殊潜航艇甲標的」がアメリカ海軍所属のウィックス級駆逐艦ワード」に攻撃、撃沈された事件

 1941年11月25日にはルーズベルト大統領は、キンメル〈海軍大将・米太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官〉に、日本の攻撃が差し迫っているという警告を与えており、これを受けてキンメル大将は日本軍による奇襲を警戒し「国籍不明の敵対的行動にも躊躇せず攻撃せよ」との事前通告を出していた。

 12月7日〈日本時間1941年12月8日〉先述した甲標的がアメリカ領海内のハワイ準州の真珠湾周辺にある航行制限区域に侵入していた。現地時間12月7日4時8分、先述したウィックス級駆逐艦であった「ワード」〈艦長ウィリアム・W・アウターブリッジ大尉〉の当直乗組員が交代しようとしたまさにその時、特設沿岸掃海艇コンドルから正体不明の潜水艦を発見したとの報告が入り、30分ほど警戒したものの、コンドルからの続報はなかった。

 ワードの乗組員は目視でアンタレスとバージの間に動くブイのようなものを発見し、双眼鏡で詳しく観察すると、それは潜水艦の司令塔のように見えた。ワードは警戒を厳重にしたうえで観察を続けた。やがて、上空にはPBY カタリナが飛来し、アンタレスもようやく謎の物体に気付いてワードに注意の信号を出し続けていた。ワードは20ノットの速度で物体に接近していき、6時45分、距離わずか100メートルで射撃を開始した。3発のうち1発が「司令塔」に命中して物体は沈み始めた。ワードが最接近して4発の爆雷を投下すると黒い液体が流出し、物体は二度と海面上にその姿を見せることはなかった。これは日本海軍の空爆開始〈真珠湾攻撃〉の少なくとも45分以上前になされた

 なお、ワードは攻撃後の6時53分、真珠湾の太平洋艦隊司令部に「防衛海域を航行中の潜水艦1隻を攻撃、砲撃と爆雷投下を行った」と報告したが、同海域では鯨などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、また通報自体暗号文での送信であり平文への展開に手間取ったこともあり、キンメル大将への報告は大きく遅延、日本軍の奇襲を事前に察知する機会を逸した

 

第1569話 潜水空母・伊号

序文・潜水艦に戦闘機を搭載

                               堀口尚次

 

 潜水空母とは、敵の制空・制海下を潜航突破して敵本国の要地を攻撃するために攻撃機を搭載した潜水艦の事である。これらの潜水艦は、第二次世界大戦中に最も使われたが、その作戦の重要度は小さかった。それらの中で最も有名なのは日本の伊四百型潜水艦だ。

 伊一型潜水艦 1932年に就航した5番艦〈伊号第五潜水艦〉は格納庫を装備し、日本海軍で初めて水上偵察機の運用が可能な潜水艦となった。カタパルト装備〈航空機を射出するための機械〉により艦を停止させることなく水上機の運用が可能だったが、1940年の改装時に射出機を撤去、これ以降の水上機の運用は確認されていない。続いて就航した6番艦〈伊号第六潜水艦〉も水上偵察機1機の搭載が可能だったが、実際の水上機の運用については定かではない。

 伊七型潜水艦 1937年に1番艦の伊号第七潜水艦、翌年に2番艦の伊号第八潜水艦が就役。水上偵察機搭載のために格納庫とカタパルトを備えた。1番艦の伊号第七潜水艦は真珠湾攻撃前の1941年11月17日、搭載した九六式小型偵察機によるオアフ島の航空偵察を行うなど実戦での水上機運用を行った。

 伊四百型潜水艦 1944年から1945年にかけて3隻が就役。アメリカ本土攻撃を目的として開発され、攻撃機晴嵐(せいらん)3機の搭載に加え、地球1周半にも及ぶ航続距離を持っていた。第二次世界大戦で就役した潜水艦で最大。パナマ運河やアメリカ本土が計画されたが実行されず、新たな攻撃目標となったウルシー泊地へ2隻が向かう途中で終戦を迎える。

 太平洋戦争開戦後の昭和17年1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった。同年5月、水上攻撃機2機〈昭和19年初頭、3機に改訂〉・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という特型潜水艦の艦型が決定した。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である。後日、黒島亀人軍令部第二部長〈昭和17年当時は聯合艦隊先任参謀〉が藤森康男中佐〈軍令部部員〉に語ったところによれば、構想そのものは山本五十六〈太平洋戦争前半の聯合艦隊司令長官〉に依る。山本はアメリカ東海岸での作戦に伊四百型を投入することを企図しており、戦史叢書「潜水艦史」では『常に、米国に直接脅威を与えるような作戦を考えていた山本長官の戦略思想からみれば、あり得ることであろう。』としている。

 

第1568話 自刃した会津藩士の妻・神保雪子

序文・夫も妻も自刃の悲劇

                               堀口尚次

 

 神保雪子〈弘化2年 - 慶応4年〉は江戸時代末期〈幕末〉の女性。会津藩士・井上丘隅の次女、神保修理の妻。

 美貌で知られた雪子は、会津藩士神保修理の妻となった。夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、羨望の的であった。

 しかし、夫修理は鳥羽・伏見の戦いの際に徳川慶喜に戦線離脱を進言したとして藩内抗戦派の憤激をうけ、自刃させられてしまう

 雪子は同年の会津戦争に際して実家に戻っていたところ、父の井上丘隅から神保家に殉じるよう命じられて自刃を禁じられ、家を出た〈実家の女性は全員自決〉。

 その後、従来は雪子中野竹子らの婦女隊に参加して敵弾に倒れ戦死したと伝えられていたが、水島菊子の証言によれば遂に合流しなかったということから元会津藩士山川健次郎が調べ直したところ、合流の事実は確認できないものの、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死したことは確実だという〈神保修理の弟巖之助からの書面により判明〉。

 一方土佐藩士吉松速之助の証言によれば、8月25日時点では雪子はかつて味方であった大垣藩兵により、会津坂下長命寺に拘束されていた。吉松速之助は解放を主張したが容れられなかった。雪子は吉松に請い短刀を拝借して自決したという。

 

第1567話 浦上四番崩れ

序文・隠れキリシタンの受難

                               堀口尚次

 

 浦上四番崩れは、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタンキリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であったの摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目

 江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、改宗しないものは処刑する政策をとった。もともと長崎はカトリック教会とゆかりがあり、信徒たちが多く暮らしていたが、禁教令をうけた信徒たちは隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り、次代へ受け継いでいくことになった。そんな長崎の隠れキリシタンたちの間には、江戸時代の初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャンなる伝道士の予言が伝えられていた。それは「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ〈司祭〉がやってくる」というものであった。

 慶応3年、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。間もなく江戸幕府は瓦解するが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされた。

 このことはキリスト教信仰の盛んな諸国から激しい非難を受けた。この頃、別件で政府使節として欧米へ赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が、江戸末期に締結された西洋諸国との不平等条約を改正するのに、障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達した。これにより明治6年にキリシタン禁制は廃止され、慶長19年の全面禁教以来259年振りに、日本でキリスト教信仰が解禁されることになった。

 明治6年2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、外国に対してはキリスト教解禁を声明した。ただし国内に向けては「キリスト教を解禁」したとは声明しなかった。3月14日、政府は各藩に対して捕らえられていた信徒の釈放を命令した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、明治12年、故地・浦上に聖堂〈浦上天主堂〉を建てた。 

 

 

第1656話 日本福祉大学創立者・鈴木修学

序文・法華経信者

                               堀口尚次

 

 鈴木修学〈明治35年 - 昭和37年〉は、日本の社会福祉の実践家で教育者、日蓮宗僧侶日本福祉大学創立者で初代学長。学校法人法音寺学園、昭徳会理事長。日蓮宗大僧正。

 明治35年愛知県江南市寄木町の菓子の卸売りを兼ねる農家に生まれる。父は熱心な法華経信者であった。布袋尋常高等小学校高等科卒業後に家業を継ぎ、菓子の他にパンの製造と卸売を始めて成功する。やがて法華経の教えによる社会の救済を実践していた仏教感化救済会の杉山辰子と出会い、家業や蓄財を精算したお金を携えて救済会に入会する。

 昭和3年、辰子の養女みつと結婚。同年、辰子の指示により、夫婦で福岡県福岡市のハンセン病療養所を運営する。療養所が現地の病院に引き継がれると、愛知県知多郡阿久比町で救済会が運営していた青少年更生保護施設の指導者を任される。昭和7年、辰子が死去すると、救済会は教化部門の仏教樹徳修養団と社会事業部門の大乗報恩会に分化した。修学は大乗報恩会の常務理事となった。しかし、昭和18年4月、反戦運動の疑いによる治安維持法違反容疑で逮捕され、58日間の勾留の末、布教活動の停止を命じられた。仏教樹徳修養団は活動を禁じられ、大乗報恩会は昭徳会と名称を変え、大日本帝国陸軍の坂井徳太郎中将の管理下に置かれた。

 終戦後の昭和21年、京都本山妙伝寺の森泰淳のもとで得度。仏教樹徳修養団を発展解消して、日蓮宗昭徳教会と改めた。昭和25年、大荒行に入り、第三行を終えた後、日蓮宗財務部長に就任。その一方で、昭徳教会を法音寺と寺号公称するようになった。昭和28年2月、学校法人法音寺学園を設立し、4月には中部社会事業短期大学を開き、昭和32年4月には日本福祉大学を設立する。修学は日本福祉大学初代学長となり、日蓮宗権大僧正に昇叙。昭和36年、戦前戦後にわたる福祉活動に対し、藍綬褒章が授与された。昭和37年、60歳で死去。没後に正六位勲五等瑞宝章が追叙、日蓮宗大僧正僧位が追贈された。

 名古屋市昭和区HPより『大乗山法音寺は日蓮宗に属し、明治42年1月、始祖・杉山辰子先生が法華経と日蓮主義をもって世を感化し、救済しようと、仏教感化救済会を創設されたことに始まります。杉山先生のみ教えは、法華経の菩薩道「慈悲・至誠・堪忍」の三徳を実行することによって、あらゆる悩み・苦しみから人々を救おうとすることにあります。個人の信仰と修養をすすめるとともに、社会福祉法人昭徳会・学校法人日本福祉大学の経営を通して社会貢献を行なっております。』