序文・青松葉事件を知る人は少ない。城山三郎の「冬の派閥」に詳しく書かれているが、幕末混乱の悲劇と云えよう。
堀口尚次
幕末慶応4年に発生した、尾張藩内での佐幕派弾圧事件。弾圧の対象者は、重臣から一般の藩士までに及び、斬首14名・処罰20名にのぼった。京都で大政奉還後の処理を行っていた14代尾張藩主・徳川慶勝が、急遽断行したことから何らかの密命を朝廷から下されたと思われるが、真相は未だに闇の中だ。
徳川御三家である尾張藩・紀州藩・水戸藩には「御附家老」なるものが存在した。これは、江戸幕府・将軍家から派遣されたいわば藩主のお目付け役であり、尾張藩には成瀬隼人正(後の犬山藩主)と竹腰兵部少輔(後の今尾藩主)があり、藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力も強大であり、藩内は自然と成瀬派(勤皇・金鉄組)と竹腰派(佐幕・ふいご党)に分かれた。藩主・徳川慶勝は尊皇攘夷の立場をとり、竹腰派のふいご党と対立することが多かった。
大老・井伊直弼の弾圧(安政の大獄)により慶勝が隠居すると、成瀬派の金鉄組は没落し、御付家老・竹腰兵部少輔のふいご党が新藩主・徳川茂徳(慶勝の実弟・高須藩4兄弟の一人)のもとで藩政を取り仕切った。しかし桜田門外の変で井伊直弼が死去した以降は竹腰兵部少輔も失脚し、慶勝が隠居の身ながら全面に出、金鉄組とともに再び藩政をにぎっていた。この間藩主は、茂徳から義宜(慶勝の実子)に代わり、ふいご党は日の目を見なくなった。
将軍・徳川慶喜は大政奉還をするが、慶勝は新政府の議定(今でいう副総理格)に任じられ、慶喜への「辞官納地(官位剥奪と徳川家領の半分の返還)」の通告役となり、更には実弟の会津藩主・松平容保の京都守護職と桑名藩主・松平定敬の京都所司代の解任をも通告することになった。この時慶勝は、慶喜の身分保障や、自身の領地(尾張藩)を慶喜(徳川宗家)に譲るという提案もしているが、新政府側から拒絶されている。
王政復古の大号令の後、岩倉具視の指示で二条城にいた徳川慶喜・松平容保・松平定敬を大阪城へ退去するように進めたのが慶勝だった。新政府の議定であり、徳川御三家筆頭の慶勝(従兄弟・兄弟)だからこそできた説得であろう。
大政奉還後、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北しその一報が尾張藩に届くと、幕府側への派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。
この時京都にいた慶勝は、1月8日に手勢を率いて上洛した尾張藩監察・吉田知行から、尾張藩城代・間宮正萬の言い付けという形で、「国許で佐幕派・ふいご党が幼君義宜公を擁奪し旧幕府軍に味方参戦しようとしている」などの尾張藩内の情勢を聞き、直ちに重臣達を招いて鳩首協議をし、12日には朝廷(岩倉具視)を重臣達と訪れ帰国の許可を得ている。1月15日に京を立ち、20日に帰国している。そして20日の内に「朝命により死を賜う」とし問答無用でいきなり切腹を命じた。20日は3名の重臣が、翌日からも11名が切腹・斬首され、更には20名に刑罰を言い渡した。家邸・禄高の召し上げという厳しいもので、家族は露頭に迷い自害するものも出た。
慶勝は在京時に朝廷(岩倉具視が中心)より「姦徒誅戮(かんとちゅうりく・悪者を殺すの意)」や「諸藩勤皇誘引(各藩を佐幕から勤皇へ導く)」を命ぜられており、同じく在京だった勤皇・金鉄組の御附家老・成瀬正巳も1月16日に離京し、帰国の日程を変更して19日に清州にて慶勝と二人で密談している。この時にふいご党弾圧の段取りを取り決めたのであろうか。
こうして徳川慶勝は、従兄弟である将軍・徳川慶喜や実弟(高須藩4兄弟)の会津藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬らを敵にまわしてしまうのであるが、朝廷(岩倉具視)と約束した各藩を勤皇派に導くために約70の藩や勢力のある神社・仏閣に「勤皇詔書」を取り付け、自藩の佐幕派の粛清を実行し勤皇を率先し、新政府側の信頼を得ていた。
徳川御三家筆頭の尾張藩は譜代諸藩にも影響力があり、勤皇か佐幕かを決めかねていた諸藩の同行は尾張藩にかかっていたという側面も否めなかった。
美濃の郡上藩のように、藩主は勤皇で新政府に与したが、家老の子が凌霜隊を組織し幕府側に味方するなど混乱した小藩もあった。
尾張藩は地理的にも東海道や東山道の要でもあり、そのことからも朝廷(岩倉具視)は、尾張藩を勤皇に取り込む必要があったと思われる。
青松葉事件の2週間後には、尾張藩主・徳川義宜(慶勝の実子)が新政府軍の東海道先鋒に任命され、無血開城の江戸城に先頭で入る役目も尾張藩が担った。その後も尾張藩は新政府軍として戊辰戦争を戦い、功績を上げている。
青葉松事件の真相が不明なのは、事件後尾張藩に箝口令が敷かれたことと、王政復古の大号令で新政府の議定に任命された徳川慶勝や松平春嶽(元幕府の政治総裁職)の日誌の事件前後が破棄されて残っていない点に起因する。
慶勝は斬首を「朝命を賜る」とし、老臣の諫言も聞かず、充分な詮議もなしに
即日切腹を申し付けたが、勤皇派御付家老・成瀬の金鉄組の思惑も垣間見える。
これほどまでに徳川慶勝に勤皇を迫り旗幟を鮮明にするように迫った朝廷(岩倉具視)側というか、新政府側の思惑には薩摩藩や長州藩も関わっていると思われる節もある。薩摩藩には宝暦治水事件で幕府に恨みがあり、長州藩には長州征伐での恨みがあった。ただし、元々尾張藩の家訓には勤皇思想が明確にあり、討幕目的の新政府軍の思惑に必要不可欠なのが尾張藩であったのだ。
事件名の「青松葉」は、処刑された重臣の筆頭格の渡辺新左衛門の家が「青松葉」といわれていたことからきている。
慶勝は明治3年に名古屋知藩事に就任し、(この年に明治政府から処刑された
14士の遺族に対し、家名の相続が許され給禄が支給された。)明治8年には尾張徳川家当主を再継承した。また、職を失った藩士を救済するために、明治11年から北海道八雲町の開拓に取り組んだ。これには青松葉事件直前に、尾張藩・監察として慶勝に佐幕派のクーデター計画を密告したとされた吉田知行が派遣されているが、当時の密使にたいする批判をかわすための慶勝の計らいであったようだ。
明治23年には青松葉事件受刑者に対して「憲法発布の大恩赦」として罪科消滅の証明書が交付された。
現在の名古屋城の敷地の片隅に、ひっそりと「青松葉事件」の碑文が立つ。
また、昭和になってから名古屋市名東区のお堂から17体の地蔵が発見され、9体の背中に人名を書いた張り紙があり、その内判明できる7人の氏名が「青松葉事件」の犠牲者と一致したことから、この事件を供養する地蔵と分かった。実際に処刑されたのは14名であることから、カモフラージュのために3体多くされた地蔵像が闇の深さを語っている。
現在の歴史研究では、佐幕派(ふいご党)の渡辺新左衛門ら14人が起こしたクーデターという説や、岩倉具視ら新政府が尾張藩の勤皇派を利用するために仕掛けた冤罪事件であり(勤皇派=金鉄派組リーダーの家老・田宮如雲が画策した説もあり)、渡辺新左衛門らはその犠牲になったという説もある。
渡辺新左衛門が処刑される直前に訴えた言葉の『朝命ということであれば、ありがたくお受けするが、我々は藩侯に対して事を構えた覚えは全くない。ましてや、上御一人(かみごいちにん)に対して反逆した覚えは微塵だにない。たとえ、藩侯の意に反した行為があったとしても、それは藩侯自ら決裁すべきことである。』が興味深い。
幕藩体制とはいえ、勤皇色が強い藩には「尊皇賤覇(天皇を尊び、武門=幕府は天皇の家来)」という考えがあり、朝廷の権威は絶対であった。しかしながら、弱体化したとはいえ徳川幕府260年の報恩に報いんとした家臣が諸藩の抱えた派閥争いなどど相まって、佐幕の標榜を貫き通したこともまた事実だろう。
いずれにせよ、事件の真相は闇の中だが、徳川慶勝のみが知る真実として文字通り墓場まで持って行ってしまったのだ。
尚、処刑された尾張藩士の討手を務めた4名が不審死・事故死・自害をしていることから、青葉松事件の怨霊とする説もある。