ホリショウのあれこれ文筆庫

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第4話 丙丁童子来求火(へいていどうじらいぐか)

序文・20代後半にアパートで独り暮らしをしてる時に、仏教に感化されて書いた文面です。(当時はワープロで書いて印刷し、手紙として数人に送った記憶あり)

 

 -仏教徒の自己とは-

                               堀口尚次

 曹洞宗開祖・道元禅師の『正法眼蔵弁童話』に、こんな話があります。

法眼禅師の道場に則公という修行僧がいて、寺の経営を担当しながら修行していました。ところが、法眼に対して一度も質問せず、それがもう三年にもなったので、そこで法眼は、「君は後輩なのに、なぜ質問にこないのか」と尋ねました。すると則公は、「私は和尚さんを軽視してるわけではありません。ここに来る前は青峯禅師の所で修行しており、そこで悟ったから、もう質問することがないのです」と言います。そこで法眼が、「君はどんな言葉で悟ったのかね」と聞くと、則公が言うのには、「私は、青峯禅師に『真実の自己を求める仏教徒の自己とはどんなものですか』と質問したのです。すると青峯禅師は答えは『丙丁童子来求火』というのです」「そうか。それはいい言葉だ。しかし、君は恐らくその真意を理解しているまい」

「いいえわかっています。ですから『火の兄弟が来て、火を探し求めている』ということです」則公は、更に続けてこの言葉の意味を説明します。「仏教というのは、自己とは何かについて学び、本来の面目たる自己になりきることによって救われる教えです。したがって『仏教徒の自己』とは、火の兄弟が火を探しているようなものなのです」と。

ところが法眼は、「君はわかっていない」と指摘します。「ああ、やっぱり君はわかってなかった。仏教というものがそんな程度のことなら、今日まで伝わるはずがないではないか」こう言われて、則公は大変ショックを受け、自分の悟りを批判されたことに腹を立てて、道場を飛び出してしまいます。しかし、旅の途中で落ち着きを取り戻して考えます。

<あれだけの大先生だから、自分のまだ気づいていない解釈もあるのかもしれない>そう思い直して、恥を忍んで法眼の所へ戻り、謝った上でもう一度聞きます。「真実の自己を求める仏教徒の自己とはどんなものですか?」すると、法眼は答えます。「丙丁童子来求火」何のことはない、青峯禅師とそっくり同じ答えだったのです。しかし、この時則公は『真に悟った』と記録にあります。

 仏教でいう『自己』とは、執着の自己(何かにとらわれている自分)に気づき、こだわりの心をなくした心身脱落の自己になりきることを指します。心身のこだわりを越えた自己とは、『謙虚な私』です。

謙虚さがわかったと自慢したら、それはすでに、謙虚ではありません。

謙虚になりきった時が真の自己であり、だからこそ謙虚になった則公は、自らが『空(無の心)』になったと自覚しえたのです。

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