序文・大きな出来事程、表舞台には見えない裏舞台があるもの。勝海舟ばかりが目立っていたので、勉強がてら筆を執りました。
堀口尚次
幕末の江戸城無血開城と云えば、勝海舟と西郷隆盛の会談が有名だが、実に様々な裏工作で御膳立てがなされていたのである。
①篤姫(後に天璋院)=13代将軍家定の正室で薩摩藩主・島津斉彬の養女。
→かつて(薩摩藩時代)の家臣・西郷隆盛に徳川家存続と慶喜助命の嘆願書を
東海道川崎で手交している。
②和宮(後に静寛院宮)=14代将軍家茂の正室で孝明天皇の妹。
→征討大将軍・仁和寺宮嘉影親王と東海道鎮撫総督・橋本実梁へ嘆願の使者を使わして いる。
→駿府城で東征大総督・有栖川宮熾仁親王へ嘆願書を手交している。
④幕臣・山岡鉄舟は、上野寛永寺で謹慎中の慶喜を警護していたが、新政府に恭順の意 を伝える役目を仰せつかり、勝海舟と面会して書状を預かると勝海舟の代理として、駿 府で征討大総督府参謀・西郷隆盛に面会し会談。
→西郷隆盛は以下の七つの条件を提示。
一、江戸城を明け渡す。
二、城中の兵を向島に移す。
三、兵器をすべて差し出す。
四、軍艦をすべて引き渡す。
五、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰する。
六、暴挙の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する。
七、将軍慶喜は備前藩にあずける。※備前藩は慶喜の弟が藩主。当時、親族の藩に預けるということは、罪人扱いを意味していた。
→山岡鉄舟は、七項目目だけは承服しかねるとし、西郷隆盛も譲らなかったが、ついには山岡が「もし立場を入れ替えて西郷が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するか」と詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、七項目目は西郷が預かる形で保留となった。
→これまでの御膳立てがあり、この会談で江戸城無血開城が決定した。
ちなみに、開城時の旧幕府側は、田安徳川家(後に徳川宗家を継ぐ)・徳川家達(田安亀之助)であり、東征大総督として入城したのは、かつて和宮の婚約者だった有栖川熾仁親王。受取側は徳川御三家筆頭の尾張徳川家であった。田安徳川家と尾張徳川家は深い血の繋がりもあり、江戸城摂取は穏便に行われた。
※この他にも、諸外国からの圧力もあり新政府軍による武力開城は回避された。