ホリショウのあれこれ文筆庫

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第31話 昭和維新の筈(はず)だった二・二六事件

序文・昭和維新の敢行が目的だったが、錦の御旗は得られなかった。

                               堀口尚次

 

 昭和11年2月26日、皇道派(こうどうは)の影響を受けた陸軍青年将校らが、1483名の下士官・兵を率いて起こしたクーデター未遂事件だ。昭和初期、陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の大尉・中尉・少尉達)は、昭和維新・尊皇斬肝(ざんかん)=悪者を切り殺す」をスローガンに、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えていたところの元老(げんろう)重臣さえ殺害すれば、天皇親政が実現し、諸々の政治問題が解決すると考えていた。

 当初は陸軍首脳もそのような青年将校運動を、内閣などに対する脅しが効く存在として暗に利用していたが、あくまで官僚的な手続きを経て軍拡を目指す統制派が台頭し、陸軍と内閣の関係が良好になってくると、陸軍首脳部は青年将校運動を目障りと考えるようになった。

 陸軍首脳はこれら運動の青年将校の多くが所属する第一師団の満州派遣を決定するが、派遣前に将校達は決起した。岡田内閣総理大臣以下政府首脳5名を襲撃し、首相官邸その他6箇所の政府主要官庁などを占拠した。

 その上で、彼らは陸軍首脳部を通じ、昭和天皇昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否し、「朕(ちん)が股肱(ここう)=腹心 の老臣を殺戮(さつりく)す。この如(ごと)き凶暴の将校ら、その精神においても何の恕(ゆる)すべきものありや」と言ったとされる。天皇は自ら近衛(このえ)師団(しだん)=天皇直属の部隊 を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。

 これを受けて、事件勃発当初は青年将校達に対して否定的でもなかった陸軍首脳も、彼らを「叛乱(はんらん)軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌(しんしゃく)=相手の事情や心情を汲み取ること されることはなく、一審制の裁判により事件の首謀者、ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間の思想家は銃殺刑に処された。これで過激なクーデター、テロを目指す勢力は一掃された。

 民間の思想家としては北一輝が有名である。国家社会主義者の北は、「軍事革命=クーデター」による国家改造の必要性を唱えていた。

 青年将校たちは、政治家や財閥の腐敗、経済の悪化、農村部の疲弊、これらの現状を打開するには、武力によって国家を改造するという北一輝の思想に影響を受けたとされる。

 天皇親政を目指して決起したはずが、その天皇の命により鎮圧されるという最悪の結末を向えてしまう。銃殺刑になった将校らは「天皇陛下万歳」と言って死んでいったという。

 一時は、青年将校達を上手く使って、自分達(陸軍・皇道派)の地位を向上させようとしていた首脳達の、無責任な対応・態度が窺(うかが)える。事件後、軍部の力は増々大きくなり、内閣の中での発言権を強めて行く事となる。そうして、軍部の暴走は留まる事はなく、満州事変・日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいったのだ。

 東京都渋谷区・旧東京陸軍刑務所敷地跡にある二・二六事件慰霊碑が、観音像と共に建つ。昭和維新の崇高な理念とは別に、軍事クーデターというテロ行為に及んでしまった青年将校達。時代の大波に呑まれていった、若き血潮が成し遂げ得なかった政治が、はたして今日達成出来ているだろうか。私は、彼らを否定も肯定もしない。故・野村秋介氏の句を借りられるとしたら、こう詠(よ)みたい。『彼らに是非を問う勿(なか)れ 彼らは激しき雪そのものだったのだ』

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