ホリショウのあれこれ文筆庫

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第45話 表現の自由と差別

序文・昨今「表現の不自由展」が話題になっているが、民主主義は難しいみたいだ。

                               堀口尚次

 

 1990年当時長崎市長であった本島氏が、天皇の戦争責任に触れる発言をしたとして、右翼団体幹部から銃撃された殺人未遂事件が発生した。当時は昭和天皇の容体が悪化しており、国内ではこのような天皇の評価に関連する発言に対して自粛ムードが漂っていたため、市長の発言がマスコミで大きくクローズアップされた。元々は天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免(まぬが)れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している」という趣旨の発言であったが、『天皇の戦争責任はあると思う』という部分だけを強調する形で報道された。

 こうした中、市長銃撃事件が起きるが、評論家の姜(かん)尚中(さんじゅん)氏は「この時マスコミは『表現の自由を守りましょう』と言ったが、マスコミは差別問題ではいわゆる放送禁止用語を規定【言葉狩り】しており、このことでは「表現の自由」を放棄しているに等しい。要するにマスコミは、ダブルスタンダードを採っている。これはマジョリティー【多数派】に合わせる事であり、コフォーミズム【順応主義=事勿(ことなか)れ体質】に繋がるものだ」と糾弾(きゅうだん)している。

 確かに、被差別部落問題に代表される差別表現には「表現の自由」で固唾(かたず)けられない歴史的背景がある。しかし一方では、解放同盟の糾弾運動で行き過ぎた面がなかったとも言えないようだ。

 マス・コミュニケーションが大多数のニーズに合わせる事を使命としているのならば、マジョリティーに合わせ、コフォーミズムに陥(おちい)ることは想像出来る。新聞社もテレビ局も会社組織であり、会社員【サラリーマン】が働いているのだから、長い物に巻かれる事は世の常だろう。

 肝心なのは、ジャーナリストとして矜持(きょうじ)をどこまで保ち、あらゆる事象とその報道との葛藤(かっとう)などと戦うかだろう。更には、権力の監視役としての使命を持つのがジャーナリズムであり、それを伝えるのがマスコミなのだ。差別や癒着(ゆちゃく)があってはならないが「表現の自由」は守られなければならない。民主主義国家として。

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