ホリショウのあれこれ文筆庫

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第46話 鎌倉幕府の運命

序文・平家を倒した源氏だったが、短命に終わった。「諸行無常」にはつづきがあったのだ。

                               堀口尚次

 

 私達の頃は、「いいくにつくろう鎌倉幕府で1192年が幕府創設の年と習ったが、どうやら今は違うようだ。源頼朝に朝廷から征夷大将軍の宣下(せんげ)がなされたのが1192年だが、現在の研究では創設の年は6件ほど存在している。

 元々伊豆の流人(るにん)だった頼朝が、平氏追討の兵を挙げる前提となったのは、以仁王(もちひとおう)【親王天皇の皇子】のいわゆる「令旨(りょうじ)【親王の下達(かたつ)文書】」だった。壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた頼朝は、奥州藤原氏も滅ぼし(この時に弟の源義経=牛若丸も討ったとされる)、鎌倉幕府の基礎を固めて行った。

 頼朝の後を継いだのは、嫡子(ちゃくし)・頼家だが、若干18歳の為、幕府の有力者達は頼家に任せる事に不安を抱き、有力御家人が政治を行う合議制を築いた。この中で頭角を現したのが北条氏だった。

 重病に陥(おちい)った頼家の後を継いだのは、弟の源実朝(さねとも)だが、実朝が将軍職に就くとすぐに頼家は死亡した。これは北条氏の暗殺とみられている。こうして北条氏は、将軍実朝を補佐して「執権(しっけん)」と呼ばれる地位に就(つ)き、政治の実権を握っていった。そして遂には将軍実朝も暗殺されるという最悪の事態となる。

 この後の将軍は、朝廷より摂家(せっけ)将軍【お飾りの将軍】を迎え、幕府の実権は執権の北条氏が掌握することになる。

 そしてこの北条氏も、足利尊氏に滅ぼされる事になるが、足利氏は清和(せいわ)源氏の直系の流れを汲(く)むことから、再び北条氏(平氏の流れ)から源氏の世に戻した事になる。

 ちなみに「いざ鎌倉」という言葉があるが、「謡曲・鉢木(はちのき)」に出て来る。執権・北条時頼は隠居して僧となり諸国を視察したという伝説がある。ある日、時頼が旅をしていたところ、大雪になり佐野源左衛門常世という貧しい武士の家に泊めて貰う事にした。常世は大切に育てた盆栽の梅や松、桜の木を囲炉裏で焚(た)いて出来る限り僧を持成(もてな)した。その時に常世は「一族に領土を取られてしまって今はこのような貧しい生活です。しかし甲冑(かっちゅう)や長刀(なぎなた)、馬は準備しています。そして、いざという時には一番に鎌倉へ行き、敵と戦う覚悟です。」と言った。その後、常世鎌倉幕府から召集の連絡を受けた。そして彼はすぐに痩(や)せた馬で鎌倉に駆け付けた。そこで常世は自分が泊めた僧が実は先の執権・時頼だった事に気が付いた。時頼は常世の言った事は本当だったと感心し、常世の領土を取り戻した。更に大切な盆栽を焚いて持成してくれたお礼に、新たに領土を与えた。この話のように、鎌倉幕府で何か大変な事件が起きた時は、武士は、鎌倉にいち早く馳せ参じる事から「いざ鎌倉」という言葉が生まれた。

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