ホリショウのあれこれ文筆庫

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第48話 郡上踊りの哀しい歴史

序文・盆踊りの「郡上節・かわさき」に隠された哀しみがありました。

                               堀口尚次

 

 「郡上節の 耳なれし曲 哀しみの 過去唄えるに 今気づきたり」この短歌は、私の母親が詠(うた)ったものだ。これに興味を懐(いだ)き調べてみる事にした。

 郡上踊り「かわさき」の有名な歌い出し「郡上(ぐじょのな~♪)の八幡 出て行く時は 雨も降らぬに 袖しぼる」の意味には諸説ある。どの説でも「雨も降らぬに 袖しぼる」が「涙の別れ」を意味していると云う点は共通しているが、問題は、誰と誰との別れで涙するかと云う点だ。私は、「郡上一揆」との関係説を採りたい。

 1754年の「郡上一揆」において、当時の藩主・金森氏の圧政に苦しんだ農民が、極刑覚悟で老中に駕籠訴(かごそ)=直訴(じきそ) をする為、江戸へ向かう際の別れを唄ったと云う説を採りたい。結果として郡上藩主・金森氏は改易(かいえき)=藩主交代 され、幕府の老中・若年寄大目付勘定奉行といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた江戸時代・宝暦期の出来事だ。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこの様な領主・幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。 

 「百姓一揆」だから、構図としては「百姓(農民)」対「領主(藩主)」になるが、郡上一揆に関しては、一揆の期間が長期化した事や、「領主(藩主)」だけではなく「美濃郡代美濃国の幕府直轄領を治める代官)」や幕閣中枢も絡んでいる事などから複雑な様相を呈している。

 更に複雑な事に、農民側も「急進派」と「慎重派」に分かれていがみ合っていた。また、前・藩主が改易された事により、大勢の浪人が発生するなど、郡上藩の内情は、ずたずたになってしまったのだ。

 郡上の盆踊り自体が盛大になり広まっていった背景には、郡上藩主・金森氏が改易された後に藩主となった青木氏が、一揆の影響でずたずたとなった藩内の融和の為、盆踊りを推奨した事が郡上踊りの起源であるとの説がある。

 「郡上踊り・かわさき」は私自身、幼い頃から盆踊りで聴き馴れ親しんだ曲だが、どことなく哀愁があり悲しげな印象は昔からあった。元来、盆踊り自体が、先祖の霊を慰めるものであったはず。

 郡上八幡と云うところは、先に記した「美濃郡上藩・凌霜隊」といい、この「郡上踊り」の哀しい歴史といい、哀愁の町である。何度か足を運んでいるが、このような歴史を踏まえて再度訪れてみたいものだ。

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