ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第51話 彰義隊の矜持

序文・大河ドラマ「青天を衝け」で少し出てきたが、運命が違えば渋沢栄一彰義隊にいたのだ。

                               堀口尚次

 

 鳥羽伏見の戦いの後、江戸に戻り恭順(きょうじゅん)謹慎(きんしん)する為に上野寛永寺に入った最後の将軍・徳川慶喜の警護を目的に結成されたのが「彰義(しょうぎ)隊」である。「彰義」とは「大義を彰(あきら)かにする」という意味。幕臣を中心に浅草本願寺で結成式をした。旧幕府は彰義隊の存在が新政府に対する軍組織と受け取られる事を恐れ、また彰義隊と、治安改善を願う江戸住民に対する懐柔(かいじゅう)を兼ねて江戸市中取締に任じた。江戸城無血開城され、慶喜が水戸へ移った後、彰義隊は上野寛永寺に留め置かれた。勝海舟は武力衝突を懸念して彰義隊の解散を促(うなが)したが、寛永寺貫主を兼ねた輪王寺宮(りんのうじみや)を擁(よう)して寛永寺に残った。しかし、彰義隊の中には諸藩の藩士や町人・博徒(ばくと)・侠客(きょうかく)なども加わり統率がとれなくなっていた。江戸市中取締どころか、一部は放火・強盗を繰り返し盗賊と化していた。また新政府は、旧幕府首脳に江戸治安を委託していた新政府・東征軍の西郷隆盛から権限を取り上げ、彰義隊を討伐する方針を決定。京都から西郷に代わる統率者として大村益次郎が着任した。そして、佐賀藩所有の最新式大砲アームストロング砲を得た新政府軍は、大村益次郎の戦略で一日にして彰義隊を壊滅させた。この時の戦いを上野戦争と呼んでいる。

 彰義隊の始りは、一橋家ゆかりのもの17名が集まり会合を開いた事から徐々に人数が集まり、最盛期には3000~4000人はいたという。結成時の首領は元一橋家家臣で幕臣渋沢栄一郎(渋沢栄一の従兄)がなっているが、渋沢は寛永寺での上野戦争の前に、隊とは袂(たもと)を分かち振武軍を結成し別行動で新政府軍と戦う事になる。

 上野戦争での彰義隊の戦死者は266名となっているが、賊軍であることから死体の埋葬は新政府から許されず、放置されたままであった。生き残りで捕えられて投獄されたものは、牢獄の劣悪環境から生存率は低かったようだ。逃走した生き残り組は、会津箱館まで転戦している。

 いったい彰義隊にとって「大義を彰(あきら)かにする」ことは出来たのだろうか。武士としての忠義を貫き、徳川将軍家への恩に報(むく)いる事は出来たのだろうか。なにを矜持(きょうじ)とするかは人それぞれであり、勝ち負けとは関係のない武士としての生き様が、彰義隊だったのだろうか。幕末維新の大荒波に呑(の)まれて朽(く)ち果(は)てて行った侍(さむらい)達がいた事を、歴史の片隅にそっとしまっておこう。

※「本能寺合戦之図」となっているが、上野戦争を織田対明智になぞらえたもの。

f:id:hhrrggtt38518:20210921215522j:plain