ホリショウのあれこれ文筆庫

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第58話 牛島大将の沖縄戦

序文・先にも記した「戦陣訓」がここでも呪縛となっていた。

                               堀口尚次

 

 先に記した「生きて虜囚の辱めを受けず」で沖縄戦で自決した、太田海軍中将に続き、沖縄戦司令官の牛島大将について記してみる。

 牛島は、自決直前に中将から陸軍大将に昇進した最後の軍人で、陸軍士官学校校長など教育者としての経歴も持ち、沖縄戦・第32軍の司令官に任命され、最期まで指揮官として任務の遂行に当った。

 沖縄県では、県民を島外に疎開させようという計画を進めていたが、なかなか進まないので沖縄県警察部長が第32軍に「軍隊が戦いに勝った勝ったと宣伝するので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している。

 その後軍中央より「皇士警備要領」が示達された。これは「台湾と南西諸島(沖縄含む)を最前線と位置づけて、戦地となる地域の住民を戦力化し、食料を1年間分確保の上で、戦力化できない老若婦女子を予(あらかじ)め退避させるというもの」であったが、第32軍の高級参謀の大佐が、より具現化した「南西諸島警備要領」を作成し、牛島はこれを裁可している。大佐はこの要領を作成するに当って「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国で、よもや非戦闘民を虐殺する事はないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民を留めておけば、剣電(けんでん)弾雨(だんう)【銃撃・砲撃が飛び交う様】の中を彷徨(ほうこう)する惨状になる」と牛島に進言したが、牛島も『一億総玉砕』が呼号(こごう)されている時勢であったにも関わらず、大佐の意見に賛同している。このことで分かるように、非戦闘員・民間人への配慮はあったのだ。

 しかしこの結果、17~45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化されると共に、凡(およ)そ戦闘能力、もしくは作業力のある者として中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも通信兵や看護婦として軍に徴集(ちょうしゅう)されたが、これが後の「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」の悲劇を生む事となった。

 沖縄本島に上陸した米軍に対し、首里城【第32軍司令本部があった場所】から南部へ撤退する時に、牛島は最後の命令文として「生きて虜囚の辱めを受ける事なく、悠久(ゆうきゅう)の大義に生(い)くべし」としたが、この命令が結果的に終戦まで多くの日本兵沖縄県民を縛る事となってしまった。

 牛島大将も、先の太田中将も「戦陣訓」の呪縛(じゅばく)から逃れられなかった。二人共最期は自決しているが『人事を尽くして、天命を全うした』のだろう。

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