ホリショウのあれこれ文筆庫

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第65話 名君・上杉鷹山

序文・米沢藩主・上杉鷹山は江戸時代に藩政改革を成し遂げた、稀有な名君である。

                               堀口尚次

 

 ケネディアメリカ大統領に就任した際に、日本で一番尊敬する人を聞かれて「上杉鷹山(ようざん)」の名を挙げたという逸話がある。

 上杉治憲(はるのり)は米沢藩の藩主で、鷹山は藩主隠居後の号。日向(ひゅうが)高鍋藩秋月家の次男である。母方の祖母が米沢藩主の娘であった縁から、10歳で米沢藩上杉家の養子となる。遠く日向(宮崎県)から米沢(山形県)へのお国入りであるが、実際には治憲は高鍋江戸藩邸で生れ育っており、江戸からのお国入りとなった。江戸桜田米沢藩邸に移った頃より、儒学者・細井平洲に学んだ。

 藩政改革に取り組むべくお国入りした治憲を待っていたのは、藩重役(家老ら重臣)による陰険な虐(いじ)めのような仕打ちだった。極端な財政難に直面していた米沢藩だが、旧藩主や重役達は、名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢(ごうしゃ)な生活を改められなかった側面があった。重役達は、治憲が出した極端な質素倹約令についていけなかったのだ。ついていけないどころか、治憲を「九州の小藩から来た養子藩主」と馬鹿にして、質素倹約令を撤廃するように求めてきた。あまりに強引で無礼な申し立てに対し、治憲は切腹を言い渡すなど凛(りん)とした対応でこれを退けた(七家騒動)。こうして一時は、藩領を幕府へ返上する覚悟までした治憲は、財政支出半減と産業振興を図り、自らも質素倹約の生活を見本として示し、見事に藩政改革を成し遂げた。

 治憲は家督を譲る時に「伝国の辞」として『藩は先祖から子孫へ伝えられるものであり、藩主の私物ではない。・領民は藩に属しているものであり、藩主の私物ではない。・藩や領民の為に存在し行動するのが藩主であり、藩主の為に存在し行動するのが藩や領民ではない。』とし、細井平洲の教えを繁栄させている。 

 また特記すべき政策として、日本で最も古く公娼=公に営業を許された娼婦 制度の廃止にも取り組んだ。これは治憲の愛の治世の方針に基づき、公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、治憲は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。

 ちなみに有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」は、武田信玄の名言を模範にしたものである。

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