ホリショウのあれこれ文筆庫

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第73話 マナーとデリカシーについて

序文・「忙しい」とは、心が亡んだ状態だと和尚から聞いた事がある。心がほろんだらおしまいだ。人間だもの。

                               堀口尚次

 

 よく「あいつはデリカシーがない」と云うが、デリカシーのない奴は、自覚症状も無い事が往々にしてあるので、救いようが無い場合が多いと思う。

 ところが、マナーが悪い輩(やから)は、確信犯が多いので始末に追えない。私はと云えば、自分では何方(どちら)も大丈夫だと思っているが、自覚症状がない事があるのかも知れないので注意したい。

 ところで先日、実家の親父を病院に連れて行った時に、立体駐車場で混んでたので3階まで上がる事になったが、親父は「空いている身障者スペース(車椅子マーク)に止めればいい」と云う。勿論親父は車椅子でも身障者でもない。私は断って正規の空いている場所に止めたが、そこから病院の入口へ向かうと、車椅子でもなく、どうみても健常者の人が、2台の車から、先ほど空いていた身障者スペースに車を止めて降りて来るではないか。親父は「ほらみろ、みんな止めとるに」と云ったが、私は開いた口が塞(ふさ)がらなかった。

 乗車中の車の中から、平気で車外にゴミ(空缶など)を捨てる輩、火の着いたままのタバコを捨てる輩もいる。こういう奴の中には、普段はそんな悪い人間でもなく大人しい性格の奴もいよう。ただ、走り去っていく車の中から、誰が捨てたのかわからないという状況に胡坐(あぐら)をかいて、そういう行為に出るという、正義感や誠意・真心の欠片(かけら)もない卑怯(ひきょう)な人間なのだろう。

 公共の場や人が集まっている場所で、大きな声でしゃべっている輩も、マナー違反だが、デリカシーがなく、「空気が読めない」連中なので困ったものだ。

 しかし、だれだって聖人君子じゃないし、体調が悪かったり、気分が落ち込んでいて、周りに気を使えない時もある。だから、せめて体調もよく、気分が良い時は、マナーを守り、デリカシーを以(もっ)て、空気を読んだ行動を心掛けたい。

 小学校で「道徳教育」があったが、実践できなければ意味がない。欧米では「宗教教育」として大人になっても自戒できる仕組みがある。日本の道徳教育は、文字通り「絵に描いた餅」であり、実践できている大人が示す事が、子供への教育となろう。道徳では解決できない事が宗教では解決できると云う。

 道徳では、電車で席を譲る事(譲ったという行動)を美徳とするが、宗教では、例え譲れなくても「ごめんなね今度譲るから今回は勘弁して」と心の中で云えばいいと聞いた事がある。どこまでも心の問題なのだ人間だもの

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