ホリショウのあれこれ文筆庫

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第74話 江戸時代の身分制度と家格

序文・身分制度はどのように細分化されたのか、調べてみました。

                               堀口尚次

 

 「士(武士)・農(百姓)・工(職人)・商(商人)・穢多(えた)・非人」と習いましたが、公家と僧侶・神官や医者などが抜け落ちている。「士」は支配身分、「農」は農民(漁業や林業も含まれる)、「工・商」は町民、「穢多・非人」は賤民(せんみん)として区別された。

 「武士」は、「侍」「徒士(かち)(騎乗が許されない)」「足軽(騎乗も主君との対面が許されない)」に大別され、「侍」は、いわゆる殿様と呼ばれる「大名(藩主・石高1万石以上)・旗本(将軍直参(じきさん)で御目見得(おめみえ)以上=将軍に直接お目通りできる)」

を上級武士とし、「藩の重役(家老など)」や「将軍直参の御家人(ごけにん)(御目見得以下)」「陪臣の大名や旗本の家臣」と続く。

 「百姓」は、「名主(なぬし)=関西では庄屋 (村の最高責任者)」「組頭(名主の補佐役)」「百姓代(百姓の代表者)」「本百姓(自分の農地を持つ)」「水のみ百姓(他人の農地を借りる)」と細分化されていた。

 「職人・商人=町民」は、「家持(家屋敷を所有して店を構える)」「地主(家屋敷を所有して人に貸し出す)」が裕福とされた。

 「穢多」は、斃(たおれ)牛馬(ぎゅうば)(「屠殺(とさつ)」は禁止されていた)の処理と獣皮の加工や、また革製品の製造販売などの皮革関係の仕事(これらは武士の直属職人という位置づけもあった)、刑吏(けいり)=刑を執行する人・捕吏(ほり)=罪人をめしとる人・番太(ばんた)=警察機構の末端・山番(やまばん)=山林の番人・水番(みずばん)=灌漑用水の見張り役 などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人を含む)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売、筬(おさ)(高度な専門的技術を要する織機の部品)の製造販売・竹細工の製造販売など、多様な職業を家業として独占していた。

 「非人」は、「犬神人(いぬじんにん)=神社境内や御幸路の死穢(しえ)=死の穢れ の清掃人」「墓守」「河原者=乞食」「放免(ほうめん)=犯罪者の探索・捕縛・拷問・獄守を担当」「乞胸(ごうむね)=大道芸」「猿飼(さるかい)=さるまわし」「八瀬童子(はせどうじ)=延暦寺の雑役や輿(こし)を担ぐ役」等々の生業(なりわい)からくる総称である。具体的には、罪人・世捨て人・乞食・ハンセン病患者など、多様な人々を含む。基本的な職掌(しきしょう)=役目 は物乞いだが、検非違使(けびいし)=警察機構 の下で掃除・刑吏も担当したほか、街角の清掃や「門付(かどつけ)」などの芸能、長吏(ちょうり)=役人 の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した。また、武装して戦うことや葬送地の管理権を持っており、為政者から施行(せぎょう)=ほどこし を受ける権利も有した。

 上記で分かるように、「穢多」と「非人」で重なる部分がある。ひとくくりでは「賤民」であり、線引きが難しい場合もあったようだ。特に、地方によってこの色合いに差が生じたようだ。

 また、武士というものは、階級・序列を重んじ、格式や見栄の世界に生きた。特に大名の家格では、御三家の「大廊下」、「溜間(たまりのま)」、国主大名=当時の行政区分である国を治めた藩主 の「大広間」、譜代大名などの「帝鑑間(ていかんのま)」、「柳間」、「雁間(かりのま)」、外様大名の「柳間」、「菊間」など、将軍との親疎(しんそ)=親しい事と疎遠な事 や、大名の有する家系の由緒や知行する石高によって、参勤交代による江戸城登城の際にあてがわれる部屋が区別された。さらに「四品叙任(しほんじょにん)=朝廷から賜(たまわ)る位階」などの「官位任官=朝廷から賜る官職名」や、「賜諱(しき)=将軍から名前の一字を賜る」をはじめとするあらゆる処遇が階層化されていた。

 幕府の直属家臣たる旗本・御家人の場合では、上級旗本は官位を与えられ重職に任ぜられたのに対し、中堅・下級旗本は無位無官の上、低い役職に補せられた。さらに、旗本には将軍謁見を許されたのに対し、御家人は許されなかったなど、幕府の直臣の間でも細かい家格が定められた。さらに、諸藩に至っては家老以下の役職は世襲化され、藩士内で家格が階層化されていた他、正規の家臣たる上士と藩の支配地に在住する土着の武士や有力百姓により構成された郷士という身分が形成され、大名の領地においても家格により強い身分統制が敷かれた。

 また、農村においても家格は存在した。村役人となる者の多くが中世の武士の血筋を引いており、郷士としての資格を認められている者が多かった。他、領主に対する忠勤や献金などによって名字帯刀の特権が与えられている場合も存在した。だが、それは同時に村の内部に「本家と分家」「侍分と百姓分」「主家と被官(ひかん)=隷属(れいぞく)農民」など様々な呼称を持つ家格を生み出すことになった。

郷士や村役人、「草分け=最初に土地を開拓し村落を作った者」と呼ばれる家々が地域の上級家格を編成して、村の祭祀の中枢機能を持った「宮座(みやざ)=神職でないが祭礼を取り仕切った」の参加資格あるいは幹部への就任資格を規定した。これに対して分家して新たに成立した家や何らかの事情で他の地域から移住してきた家などは低い家格に置かれることが多かった。

 こうして江戸時代は、身分制度と家格によって、複雑にまた厳格に人間を区分けしていた。封建制度下とはいえ、よく考えられていたと思う。但し、このことが、あらゆる差別や偏見の温床になったことは、悲しむべき歴史であると思う。人間社会に付きまとうであろう、身分(立場)と区分(差別ではない)。勿論、江戸時代の負の遺産などは、受け継ぐ必要はないが、文化としての側面は、継承し伝承する必要があると思う。

 有名な「忠臣蔵」の、浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城の殿中で抜刀したのも、元はといえば、格式を重んじる大名同志のやり取りを発端としている。また、一方的に大名の内匠頭に、即日切腹を申し渡すなどは、身分制度以外の何物でもない。城代家老大石内蔵助は「仇討ち」を成就(じょうじゅ)するが、これは身分制度を超越した行為であり、当然に赤穂の四十七士は自尽(じじん)して果てるが、江戸時代の雁字搦(がんじがら)めの身分制度の中での出来事であった事からも、より一層、後世に語り継がれる事となったのであろう。

 武士の忠心は、命に代えても尽くされるものであり、これを以(もっ)て「武士道」があるが、この思想こそが「身分制度」が生み出したものであり、逆に「武士の美学」として、文化として継承されるべきものだと思う。

 「仇討ち」を美化するのではなく、「主君の報恩に報いる」という事だと思う。

 今回、「身分制度」と「家格」を勉強していたら、どうしても「忠臣蔵」の事を関連付けて書きたくなってしまった。

 文章が脱線したむきが否めませんが、どうぞご容赦下さい。長文のご愛読、誠にありがとうございました。

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