ホリショウのあれこれ文筆庫

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第95話 死刑と終身刑の課題

序文・今回は誤解を恐れずに書きました。「自死刑」

                               堀口尚次

 

 死刑制度がある日本と、合法的に射殺が許されている国のどちらが野蛮なんだ!?と「そこまで言って委員会」で竹田恒泰氏が叫んでいたが・・・。

2020年時点で、106カ国で全ての犯罪に対して死刑は廃止されている。死刑制度を維持している国は、83カ国有りその内の28カ国が事実上廃止している。 刑罰は応報的 〈行なった行為に対して受ける報(むく)い〉な面があるのは事実であるが、死刑が社会的存在を消し去るものであるため、死刑が近代刑罰が忌諱(きい)〈嫌がって嫌う事〉する応報的な刑罰ではないとする法学的根拠が必要とされている。一般予防説〈犯罪者に刑罰を科す目的は一般の人々の同様な犯罪を抑止することにあるという刑法学上の学説〉に従えば「死刑は犯罪者の生を奪うことにより、犯罪を予定する者に対して威嚇をなし、犯罪を予定する者に犯行を思い止まらせるようにするために存在する」事になる。特別予防説〈犯罪人に刑罰を科す目的はその犯罪人の再犯を抑止することにあるという刑法学上の学説〉に従えば、「死刑は、矯正不能な犯罪者を一般社会に復(ふく)して再び害悪が生じることがないようにするために、犯罪者の排除を行う」ということになる。しかし、より正確に「特別予防」の意味をとると、「特別予防」とは犯罪者を刑罰により矯正し、再犯を予防することを意味するため、犯人を殺してしまう「死刑」に特別予防の効果はない。仮釈放のない絶対的終身刑にも同様のことがいえる。

 一般的な死刑賛成論者は予防論と応報刑論をあげるが、応報論の延長として敵討(かたきうち)つまり、殺人犯に対する報復という発想もある。近代の死刑制度は、被害者のあだ討ちによる社会秩序の弊害を国家が代替することでなくす側面も存在する。国家の捜査能力が低い近代以前は、むしろ仇討ちを是認あるいは義務としていた社会もあり、それは被害者家族に犯罪者の処罰の責任を負わせて、もって捜査、処罰などの刑事制度の一部を構成させていたという側面もある。

  殺人などの凶悪犯罪では、裁判官が量刑を決める際に応報は考慮されている。基本的には近代刑法では応報刑を否認することを原則としているが、実際の懲役刑の刑期の長短などは被害者に与えた苦痛や、自己中心的な感情による犯行動機があるなど酌量(しゃくりょう)すべきでないなど、応報に基づいて行われている。ただし、死刑の執行方法は被害者と同様(たとえば焼死させたからといって火あぶりに処すなど)の処刑方法でなく、「人道的」な方法が取られる。

 これに対して日本では導入されていない終身刑賛成論者は、死刑には社会復帰の可能性はないが、現行刑法下における無期刑には社会復帰があるため、社会復帰のない無期懲役を導入すべきとの意見だ。また、死刑を廃止した上で導入すべきとの主張もある。但し「人を一生牢獄につなぐ刑は死刑よりも残虐な刑である」といった意見や、刑務所の秩序維持や収容費用といった面から、その現実性を疑問視する意見がある。

 これらの問題は大変デリケートであり、人権問題にも抵触する課題だと思う。

ハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」があり、仏教では「因果(いんが)応報(おうほう)」〈人の過去の行いが原因で、さまざまの結果を報いとして受ける事〉の教えがある。江戸時代でも、基本的に仇討(あだう)ちは御法度(ごはっと)とされていたが、忠臣蔵の四十七士も切腹を言い渡されている。殴られたら殴り返さなければ、殴られ損になってしまう事は理屈ではわかっている。近代では、この殴り返す権利を国家に任せているのだ。法治国家として、司法の判断でこの殴り返す権利を、刑罰に変えて国家として執行しているのだ。

 問題であり、死刑や終身刑の課題とされているのは、先に述べた殴り返す権利としての刑罰の量刑をどうするかという事だ。死んで償(つぐな)うのか、一生牢屋の中で死ぬまで償うのかと云う事であろう。誤解を恐れずに書くが、私の極論として、死刑と終身刑の中間として「自死による償い」という選択肢も考えられないだろうか。「すぐ殺すのか(実際には刑が確定してから時間はかかっているが)」「自らが命を絶って死んでもらうのか」「死ぬまで牢屋にいるのか」の違いである。どんな人間にも人権があるのだから、死に方も自分で選んだらどうだろうか。しいてはそれが、犯罪を犯した事への償いに成り得ないだろうか。

1、死刑・私は、すぐに絞首刑を受諾します。そしてその事で罪を償います。

2、仮称)自死刑・私は、自分で自らの命を絶ちます。そしてその事で罪を償います。

3、終身刑・私は、ここで死ぬまで罪を償います。

この三つを現在の死刑に該当する該当者に選択させたらどうだろうか。

いずれももう二度と社会復帰は出来ず、どうやって罪を償って死んでいくか、その償い方が違うが、それを償う本人に選択させる事により、「死」という究極の刑罰の方法を自ら選び、その事で罪を償うという事にならないだろうか。

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