ホリショウのあれこれ文筆庫

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第96話 ブラザー・サン・シスター・ムーン

序文・太陽も月も兄弟姉妹なのだ。タイトル曲もすごく良かった。

                               堀口尚次

 

 もう随分前だが、タイトルの映画を観て感動した。1972年のイギリス・イタリアの合作映画だ。

 日本の仏教でも同じだと思うが、この話のキリスト教に於いても、その宗教組織が大きくなると権威や威光に胡坐(あぐら)をかいて腐敗してしまい、本来持っていた宗祖の教えが薄れてくるのだろう。会社組織でも似たような事があり、巨大になりすぎた企業は、船に例えるならば、以前なら簡単に方向転換できたものが、簡単に舵(かじ)がきかなくなるのだ。

 主人公のフランチャスコは、「富(とみ)などいらない、人間に大切なのは富ではなく心です。これからはキリストのように乞食になります」と言って、親や裕福な家を捨てる。そして質素な粗末な、但し信仰心の篤(あつ)い素朴な教会を建てるが、信者を奪われた旧態依然の巨大教会からの嫌がらせを受ける事になる。

 落胆し思索した主人公フランチェスコは、ローマ教皇に謁見(えっけん)する事を決意する。拝謁(はいえつ)したフランチャスコは、始めは「教会への誓い」を述べるが、次第に本来の信仰心の高い自分に返って行き「なぜ地上に富を蓄えるのでか、天に蓄えなさい。小鳥を見習いましょう。彼らは何も持たないが、自由です。清らかです。」と少し内容は忘れてしまったが、このような趣旨の事と、現状の教会運営の在り方に対する批判の様な内容だったと思うが、権威と威光の塊であるローマ教皇や居並ぶ教会幹部を前にして意見を述べてしまう。こうして一旦は、囚われて教会から連れ出されてしまうが、ローマ教皇が連れ戻す様に指示し、戻って来たフランチャスコに対して、現状の教会運営の不備を詫び、フランチャスコの清らかで高貴な信仰心を褒め称えたのだ。そしてあろうことか、素足で汚いフランチャスコの足の指先に接吻するのであった。

 私は、キリスト教の教義は知らないが、宗教たるものが本来持つ、精神的支柱や信仰の本髄(ほんずい)と云うものは、質素で素朴で清らかなものだったのだろうと思わされた映画だった。因みに主人公のモデルは、フランチェスコ会の創設者として知られるカトリック修道士・アッシジのフランチャスコで、「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、清貧(せいひん)、 悔悛(かいしゅん)〈過去の罪を悔いて、神の赦(ゆる)しを請うこと〉と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。アーメン。

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