ホリショウのあれこれ文筆庫

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第97話 江戸時代の義民伝説

序文・いつの時代にも「任侠道の如く、強気を挫き弱気を助く」の人がいたのだ。

                               堀口尚次

 

 義民(ぎみん)とは、民衆のため一身を捧げた人をいう。飢餓などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓の事。主に江戸時代、村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を領主、幕府に直訴(じきそ)や越訴(おっそ)〈再審などを求めて正規の手続きを踏まずに行う訴え〉をした人物。特に直訴は死罪とされていたため、その行為は義挙(ぎきょ)〈正義のために事を起こす事〉と賞賛された。ただし、死罪とされたのは直訴の行為そのものが理由ではなく、直訴や一揆を起こすにあたって村落共同体内部で事前に話し合いを持ったことが幕府や藩が禁じる「徒党の禁止」に該当したためである。

 佐倉惣五郎、は、江戸時代前期の下総(しもうさ)国佐倉藩領の義民として知られる人物で、身分は百姓の名主〈農村の最高責任者〉である。

領主の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

 佐倉藩は新たに重税を取り立て、領民の暮らしは困窮した。全領の名主たちは郡(こおり)奉行〈地方行政官〉や国家老(くにかろう)〈城に常駐する家老〉に重税の廃止を求めたが拒絶され、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても取り上げられず、惣代(そうだい)〈名主の代表〉6人が老中に駕籠訴(かごそ)=直訴 を行ったがこれも退けられた。このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った。上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われた。しかし、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、息子4人も死罪となった

 後年の社会運動家や思想家は、それぞれの立場から自らの主張の先駆者として「佐倉惣五郎」を称揚(しょうよう)=褒め称える した。幕末期から明治時代の思想家である福沢諭吉もその一人で、『学問のすゝめ』において「古来唯一の忠臣義士」としてその名を挙げている。自由民権運動家たちは民権運動の先覚者の姿を見、昭和恐慌や戦後改革の際にも新たな解釈と共に想起される事となった。

 出身地である、千葉県成田市東勝寺に祀られている。合掌。

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※直訴を決意し雪の中を江戸へ向かう惣五郎と別れを惜しむ女房と家族