ホリショウのあれこれ文筆庫

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第101話 江戸時代中期の尊王論者弾圧事件

序文・尊王論者弾圧とは、公家の勢力争いだった。

                               堀口尚次

 

 宝暦事件は、江戸時代中期に尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけのうちしきぶいっけん)とも呼ばれる。江戸時代中期、幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家(せっかんけ)=公家の家格の頂点の五摂家 は衰退の危機にあった。一条家五摂家の一つ  以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥(おちい)ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。幕府の専制摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは、天皇垂加神道(すいかしんとう)儒学者によって提唱された神道〉の学説を進講〈天皇や貴人の前で学問の講義をする事〉させた。特に徳大寺(摂関家以外の公家)らは天皇の教育実務を担当していること、天皇や近習たちによる学習会そのものは『禁中並公家諸法度』の精神に適うものとされて桜町天皇の頃より盛んになっていたため、当初のうちは問題視されなかった。やがて宝暦6年には竹内式部神道家・尊王論者〉による桃園天皇への直接進講が実現する。公家の中には、諸藩の藩士の有志を糾合(きゅうごう)=一つに集結する事 し、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放する倒幕計画を構想する者まで現れた。こうした動きを危惧した摂関家は、摂関家以外の公卿(くぎょう)を追放し、京都町奉行竹内式部を拘束した。ところが、京都所司代=地方行政機関 からは竹内式部の処分がまだ終わっていないのに、幕府の許可も得ず竹内式部の門弟である公卿を多数処分するのは幕府を無視しているのかという抗議が入れられ、更に江戸幕府からも摂関家に対して同様の詰問が入ることになり、一転して摂関家側が苦境に立たされることになる。

 摂関家側は、今回の処分はあくまでも天皇の意向であること、天皇摂関家の関係を引き裂いて竹内式部門弟の近習(きんじゅ)=主君の側近くで仕える たちが宮廷の実権を掌握する企みがあり、実際に物証と言える内奏書〈天皇への秘密の書〉が存在することなどを記した回答書を京都所司代に提出すると共に、今回の処分は事前に報告すべきであったのにしなかったのは武家伝奏〈朝廷と幕府の間の連絡役〉に落度があった旨を伝え、最終的には幕府もこれを追認することになった。

 竹内式部は、京都所司代の審理を受け翌宝暦9年5月重追放に処せられた。

江戸時代の中期から、尊王論(後の尊王攘夷)の先駆けとなるような事件があったのだ。

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