ホリショウのあれこれ文筆庫

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第116話 足利尊氏と後醍醐天皇の関係

序文・後醍醐天皇から「尊」の字をもらった「尊氏」だったが・・・。

                               堀口尚次

 

 足利尊氏は、鎌倉時代末期から室町時代南北朝時代)前期の武将。鎌倉幕府御家人室町幕府初代征夷大将、足利将軍家の祖。姓名は源尊氏。

 源氏の祖と云われる清和天皇の流れを汲む足利家本宗家の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗(とくそう)〈鎌倉幕府の北条氏の直系の家系〉・北条高時偏諱(へんき)〈君主の一字をもらう〉を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。後醍醐天皇が挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、途中で幕府への反乱を宣言、六波羅探題〈幕府の出先機関〉を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。

 後醍醐天皇の新体制である「建武の新政」下で、公卿(くぎょう)〈高級な公家〉の反乱計画発覚など政情不安が続く中、尊氏は、鎌倉方の残党が起こした「中先代の乱」により窮地に陥った弟を救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、「建武の乱」が勃発した。尊氏は、当初は大勝するが、その後は敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して(これが北朝征夷大将軍になり新たな武家政権室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。これが「南北朝時代」の始りだ。

 このように、当初は北条氏の鎌倉幕府を倒す為に、後醍醐天皇の右腕となって戦い、勲功第一となった尊氏であったが、その後は、その後醍醐天皇を相手に戦い、違う天皇を立ててまで対抗することとなったのだ。

 尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀水戸黄門〉が創始した水戸学に始まる。水戸学は、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇後醍醐天皇)を放逐(ほうちく)した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊王攘夷論者によって尊氏・義詮・義満の三代の木像が梟首(きょうしゅ)される事件も発生している(足利三代木造梟首事件)。

 尊氏は、後醍醐天皇崩御後は、その菩提を弔うため天龍寺臨済宗天龍寺派大本山・夢窓礎石の庭園が有名〉を建立している。

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※昔、教科書に載ってた騎乗の尊氏画は違う人物らしい。      ※後醍醐天皇