ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第124話 廃藩置県

序文・廃藩置県は世界に類を見ない「行政大革命」!?

                               堀口尚次

 

 廃藩置県とは、明治維新期の明治4年に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。

300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後に県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束されて東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。

 慶応3年に勃発した王政復古の政変は、事実上の中央政府江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、新政府内部の中央集権化を進めようとする勢力にとっては各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。

 明治2年 274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、各大名は知藩事藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状はほとんど江戸時代と同様であった。版籍奉還の時点で、一気に郡県制と統一国家を目指す勢力も新政府内にあったが政争に敗れた。

 一方、旧天領旗本支配地等は政府直轄地としてが置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」という。なお「藩」という呼称は江戸時代からあったが、制度上で呼称されたのはこの時期が初めてであり、江戸幕府下では正式な制度として「藩」という呼称はなされなかった。したがって、公式には「藩」とは、明治2年版籍奉還から明治4年廃藩置県までの2年間だけの制度ともなる。

 新政府直轄の府と県は合わせて全国の4分の1程度に過ぎず、また一揆などによって収税は困難を極めたため、新政府は当初から財源確保に苦しんだ。

 当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。戊辰戦争の結果、諸藩の債務は平均で年間収入の3倍程度に達していた。財政事情が悪化したため、また統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出ていた。

 明治3年、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。

 薩摩藩長州藩においては膨れ上がった軍事費が深刻な問題となっており、これに土佐藩を加えた三藩から新政府直属の親兵を差し出すことで問題を回避するとともに、中央集権化が図られた。

 当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年10〜11月には3府72県に統合された(第一次府県統合)。その後12月に、この府県の列順(序列)が布告されている。最初に東京・京都・大阪の3府の順、次に神奈川・兵庫・長崎・新潟の4県が定められた。これは明治政府が開港地を重要視していたためである。

 その後、県の数は明治5年3府69県明治6年3府60県明治8年3府59県明治9年3府35県(第二次府県統合)と合併が進んだ。しかし、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため、次は(明治14年に堺県が大阪府に合併したことを除いて)分割が進められ、明治22年には3府42県廃藩置県の対象外だった北海道と沖縄県を除く)となって最終的に落ち着いた。

 統合によってできた府県境は、律令国のものと重なる部分も多い。また、石高で30〜60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。

 また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令のように数年に渡って県令を務めて一種の独立政権のような行動をする者もいた。

 一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。尚、この制限は文官任用制度〈文官高等試験の合格者から任用される〉が確立した明治18年頃まで続いた。

 廃藩置県平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。

 だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。

 廃藩置県が急速に行われた最も重大な理由は軍制の統一および財政の健全化であった。このうち軍制については、藩軍事組織を解体し、徴兵令によって軍を再編成することによって統一が図られた。財政面では、廃藩置県直後の新政府の歳出のうち、37%が華士族への秩禄であった。その大部分を占める士族に関しては徴兵令によって家禄の根拠を失わせ、さらに秩禄処分によって華士族の秩禄を完全に廃止することで財政の改善が図られた。

 士族の大部分が近代統一国家の建設を支持していたこと、旧藩主階級を身分的かつ経済的に厚遇し東京に移住させて藩士たちと切り離したことで、改革への抵抗は抑えられた。版籍奉還の直後に旧藩主である知藩事の家禄は旧藩全体収入の10分の1とされ、かつ華族とされていた。また、版籍奉還により、旧藩主が藩知事の任命権を自発的に天皇に奉還していたことも、論理的に藩主の抵抗を難しくしていた。

 しかしながら、この廃藩置県版籍奉還秩禄処分によって不平士族の反乱(佐賀の乱萩の乱神風連の乱秋月の乱西南戦争)は起きてしまった。元武士でも大名は華族になれたし、東京への移住で旧藩士たちから切り離されたから、さほど問題は起きなかった。問題は、士族となった旧藩士たちの待遇が悪くなり、廃刀令などで旧武士としての誇りまで取られたとあって、不満が爆発したのだろう。

 ただ、不平士族の反乱は、薩摩や長州(新政府軍の中心)でしか起きていない、旧士族は日本全国にいる訳だし、旧幕臣だって不満はあろう。結局のところ、不満があっても従うしかなかったのだろう。旧薩摩藩や旧長州藩や旧肥前藩佐賀藩)には軍事力があったからだと思う。反乱を起こすだけの軍事力と兵隊組織(旧士族)がいたのだ。やがてこの軍事力が御親兵となり、徴兵制を経て、新式軍隊成立後は近衛師団となっていったのだ。

f:id:hhrrggtt38518:20211030141507g:plain