ホリショウのあれこれ文筆庫

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第128話 ①金日成の生い立ちから朝鮮戦争停戦まで

序文・金日成は、あまりにも内容が濃いので、①~③に分散しました。

                               堀口尚次

 

 金日成(キムイルソン)は、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の政治家、軍人。朝鮮の革命家、独立運動家で、同国初代最高指導者。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者に就任してから死没するまでの間、独裁的な権力を握り続けた。

 平壌西方にある万景台(マンギョンデ)で長男として誕生する。母はキリスト教徒であり、外祖父はキリスト教長老会の牧師であった。抗日派もしくはそのシンパ〈同調者〉であったためか、父親は独立運動(三・一独立運動)〈日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動〉の翌年に金日成を連れて南満州中国東北部)に移住した。

 金日成満州の平城の小学校で学んだ後、満州民族派朝鮮人独立運動団体が運営する軍事学校の塾に入学した。団体の幹部には朝鮮の独立運動家がおり、塾は数年前に現役日本軍将校だった、朝鮮の独立運動家が教官を務めた学校の流れをくんでいた。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父親が没している。

 父親が没した後、金日成中華民国吉林省の中国人中学校に通い、そこで他の学生とともに本格的にマルクス・レーニン主義に触れ、教師で中国人共産主義者に強い影響を受け、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。

 金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満州朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、左派の一団だった。中国共産党から派遣された朝鮮人運動家が、コミンテルン国際共産主義運動の指導組織〉の一国一党の原則に基づいて金日成に対して入党を勧めたが、運動家幹部が断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている。金日成中国共産党の入党は、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている。親友の中国人とともに入党したともされている。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織〈非正規軍の独立運動〉の東北人民革命軍に参加し、さらには再編された東北抗日聯軍(れんぐん)〈連合軍〉の隊員となるに至った、とされる。

 東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員〈日本の特務スパイ組織〉であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)。

 当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯(れん)軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている。

 金日成部隊である東北抗日聯(れん)軍(連合軍)が町に夜襲をかけた事件を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれる。

 その後、日本軍は東北抗日聯(れん)軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。日本軍は鎮守備隊を出撃させ、抗日聯(れん)軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯(れん)軍は警察隊を襲撃。満州警察隊が追うところとなったが、戦死者数120名とされている。このとき、満州警察隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた。

 しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯(れん)軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共にソビエト連邦領へと逃れた。

 ソ連に越境した金日成スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後東北抗日聯(れん)軍で金日成の上司だった中国人が彼の身元を保証して釈放される。ハバロフクス会議を経て、金日成部隊はソ連極東戦線傘下の中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる。

 その後、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領すると、金日成ウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。そして平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した

 金日成アメリカ統治下の南部に拠点を置き、独立運動家に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。

 平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置されると、拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金日成が副委員長に就任した

 ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成ソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した平壌での集会上で手榴弾(しゅりゅうだん)を投擲(とうてき)されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた。その後、北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた

 このように、金日成ソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府及び北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点はかなり金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。

 ソ連朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。そんな中朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した北朝鮮労働党南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(総書記)に選出された

 北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満州という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった

 当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。

 アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人)を疎開させた後、平壌を脱出し、中華人民共和国に事実上亡命した

 その後、中華人民共和国が中国人民志願軍を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍及び朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の司令官は朝鮮労働党の他派の人物を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた。

 その後、戦局は38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥(おちい)り、休戦交渉が本格化した。最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与。そして休戦が成立し、平壌に帰還した。

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