ホリショウのあれこれ文筆庫

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第130話 ③金日成の人物像(神格化・思想・評価)

序文・偉大なる革命家であったが、現在をどう思っているだろうか。

                               堀口尚次

 

 北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に神格化され、個人崇拝されてきた。その一例として金日成による抗日パルチザン〈非正規軍の抗日運動〉時代の活動について北朝鮮では学生用・人民用教材において縮地法〈道教神話に登場する仙術〉を使い、落ち葉に乗って大きな川を渡り、松ぼっくりで銃弾を作り、砂で米を作った」といった記述が行われていた。

 しかし、2019年頃から変化が指摘されており、労働新聞の2019年3月の記事は孫の金正恩が書簡で「もし偉大さを強調するなどといって、首領(最高指導者)の革命活動や風貌を神格化すれば、真実を隠すことにつながる」との考えを表したことを伝えた。2020年5月20日付の労働新聞も「縮地法の秘訣」と題した記事で抗日パルチザン時代の縮地法について霊的な技術を言ったものではないとして金日成金正日時代の解釈とは異なる見解を伝えた。北朝鮮のメディアが最高指導者に独断で言及することは考えられないことから、金正恩の意向が反映されているとみられている。

 抗日の闘士として勇名を馳せたが、たとえ日本人であっても個人として信頼を置く人物に対しては友情を示し、もし同胞であったならば決して許されないような言動に対しても寛容な態度で対応することもあったという。

 金日成は、終戦後も残留していた二人の日本人女性を家政婦として雇っていた。将来日本が共産主義になることを心配していた二人に、彼は共産主義の優位性を説いて聞かせた。それにもかかわらず彼女たちが「共産主義より天皇陛下のほうがいい」と正直に答えたので、説得することを諦め笑って受け流したエピソードがつたえられる。同様のエピソードは息子の金正日が料理人に日本人を雇い、家族的な付き合いをした例がある。

 韓国の学者は、「中国共産党傘下の抗日聯(れん)軍に中隊長クラスの位で所属していた金日成と、彼の部下数名は、関東軍の追撃を受けて沿海州ソ連領に逃げ込み、同地で解放時まで過ごしていました」「戦争が終結する少し前、スターリン沿海州にいた金日成をモスクワに呼び、彼がこれからさき朝鮮北部に作る自分の代理政府の責任者として適格であるかどうかをテストします。そしてスターリン金日成に満足したようです。これにともない金日成ソ連軍の船に乗り、解放から1カ月後に元山港に帰ってきました」と説明したうえで、北朝鮮の歴史書『現代朝鮮歴史』が「朝鮮の解放は金日成が組織し領導した栄光の抗日武装闘争の勝利がもたらした偉大な結実だった」と記述していることを「真っ赤なウソ」「深刻な捏造」「偽善の知性」として、北朝鮮の歴史書が歴然たる事実を国民を欺いているのは、北朝鮮社会に思想・学問の自由がなく、偽善の専制権力が君臨しているから、と批判している。

 訪朝経験のあるジミー・カーター米大統領は、タイの新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。

 脱北した元朝労働党書記はフリージャーナリストとのインタビューにおいて「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である」と証言している。また、金日成は中国式の改革開放に肯定的な柔軟さを持っていたが、金正日は自己保身を優先して苦難の行軍を引き起こして経済を低迷させた責任があると証言しており、これは他の記録でも裏付けられている。

 日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム・イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム・イルソン将軍について巷では、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた。金日成とされた「金顕忠」が旧大日本帝国陸軍士官学校出身だったことが判る卒業生名簿が発見・公表された。抗日運動では「金光瑞」などと名乗ったとされる。

 金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮信託統治していたアメリカ軍が作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうということについては、『金日成満州抗日戦争』において、別人説を否定した日本の歴史学者も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃(ひょうせつ)〈盗作〉したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。

 金日成の諱(いみな)(本名)は、初め「聖柱」のち「成柱」と改める。父亨稷は「順川」と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、「一星」(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄「金日成」の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される 。元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである 。また、金日成朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃され戦死した、若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日吉林の小学校に通っていたとされている。

 因みに、主体(チュチェ)思想とは、1950年代後半以降に始まった中ソ対立のはざまで、自国の自主性維持に腐心する金日成が、「我々式の社会主義(ウリシク社会主義)」に言及する中で登場し、金正日もこれを引き継いだ。この過程で、モスクワ国立大学哲学博士であり、金日成の側近だった黄長燁が哲学的に体系づけたといわれる。後に金日成により性格づけられ、1972年の憲法マルクス・レーニン主義を我が国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党主体思想と記載された。朝鮮人民が国家開発の主人であり、国家には強力な軍事的姿勢と国家的資源が必要、とする。

 「主体(チュチェ)」は、哲学およびマルクス主義の用語「主体」を朝鮮語に変換したもので、さらに北朝鮮では「自主独立」や「自立精神」を意味する場合も多い。主体思想は「常に朝鮮の事を最初に置く」という自民族中心主義の意味でも使われている。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている、とした。

 最後に、金日成による演説で、党の宣伝担当者はソビエト連邦から思想や慣習を輸入するのではなく、朝鮮自身の「ウリシク(我々式)」の方法によって朝鮮革命を前進させるべきであると論じた。これは、スターリン批判が国内に波及することを恐れた金日成が防波堤を作ったものであるとの見方もある。朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる。』

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