ホリショウのあれこれ文筆庫

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第138話 赤鬼・井伊直弼の評価

序文・こちらは、泣かなかった赤鬼。

                               堀口尚次

 

 井伊直弼といえば、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが〈安政の大獄〉、それらの反動を受けて暗殺された〈桜田門外の変〉。

 彦根藩譜代大名筆頭であり、直弼が老中より格上の臨時職・大老に就いたのは、将軍・家定の指名だったとされる。直弼は、赤鬼の渾名(あだな)で呼ばれた。

 直弼自身は、勅許(ちょっきょ)〈天皇の許可〉なしでの日米修好通商条約の調印には反対だったが、実務にあたった幕閣がやむおえず調印してしまったのが実情だ。責任を取って辞職するつもりだった直弼に、側近が諫言(かんげん)をして思い留まったのだ。歴史の教科書だけ見ていると、井伊直弼が率先して調印したという印象をもたれてしまう。

 将軍後継問題に関しては、御三家紀州藩徳川慶福を押し、14代将軍にさせ家茂と改名させて支えた。弱冠13歳の将軍なればこそ、大老としての直弼が後見人として幕政を左右出来たであろう。

 安政の大獄連座した者は、100人以上にのぼり、形式上は将軍が台命(たいめい)〈将軍の命令〉を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が全ての命令を発している。しかし、これも誤解されがちだが、直弼は幕政の最高責任者として、将軍の台命をもってある意味合法的に行ったことなのである。自分の私利私欲で気にくわない物達に処罰を与えたのではなく、あくまでも幕政の一環として将軍の台命として実行したのだ。

 桜田門外の変では、事前に水戸脱藩浪士らの襲撃の予兆も把握していたが、あえて大老としての威厳や風格を損なうとして、登城の警護を増やさなかったという。

 茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語として有名な「一期一会」は、直弼が初めに使ったという説もある。

 徳川慶喜は、晩年に直弼のことを「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評している。

 尚、直弼は父の隠居後に生まれた庶子(しょし)〈正室以外の子〉であり、彦根藩時代は長い間〈32歳までの15年間〉の部屋住み〈家督が継げない状態〉だった。

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