ホリショウのあれこれ文筆庫

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第140話 参勤交代と大名行列

序文・大名行列の中には、大名でない旗本もいたのだ。

                               堀口尚次

 

 参勤交代とは、江戸時代において各藩の主である大名や交代寄合〈江戸定府でなく所領に住む旗本〉を交替で江戸に出仕させる制度。

 全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度である。鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。

 この制度では諸大名は一年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。自分の領地から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした

 しかし一方では、大名の過度な弱体化を防ぐため、幕府は参覲交代の際の支出を節減するように求めていた。この制度の目的は、諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことにより謀反などを抑える効果、あるいは大名の後継ぎは制度上全員が江戸育ちとなることから、精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれるが、これらは結果論でしかなく、当初幕府にその意図はなかったという説が現在では有力である。そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから、「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることが当時の幕府の文書から読み取れる。

 大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まる効果を果たすことにもなった。また、逆に、18世紀の江戸の人口の4分の1、約25万人は参勤交代で地方から来た者達であったため、地方の言語・文化・風俗などが江戸に流入し、そうしたものが相互に影響し、変質して江戸や各地域に伝播し、環流した面もあった。

 参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化の繁栄に繋がることになった。また、参勤交代する事で江戸に単身赴任する各藩の家臣はかなりの数に上り、この結果、江戸の人口の約半数が武士が占めると共に遊郭が繁栄することとなった。江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは参勤交代の影響である。因みに、現在使われている?会社社長などによる「大名行列」は、重役等を引き連れて社内を巡ることで、参勤交代の殿様になったつもりだろうか?したに~したに~

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