ホリショウのあれこれ文筆庫

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第144話 庄内藩の恩返し

序文・西郷隆盛の器の大きさに応えた庄内藩

                               堀口尚次

 

 幕末の戊辰戦争に於いて、旧幕府側として新政府軍と戦った庄内藩〈現在の山形県鶴岡市〉について記す。藩主の酒井氏は、幕府の老中を務める譜代大名であった。江戸市中警護のなどにあたっていた経緯から、江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられ実行し、このことが、戊辰戦争の口火を切るとともに、後に明治政府軍による徳川将軍家武力討伐の口実や、新政府軍による庄内藩攻撃の口実ともなった。庄内藩と新政府軍は、因縁の対決という構図になったのだ。

 こうして戊辰戦争では、会津藩と共に奥羽越列藩同盟〈東北諸藩による反新政府軍組織〉の中心勢力の一つとなった。

 しかし戦局は不利に傾き、列藩同盟盟主の一角である米沢藩が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し庄内藩以外の全ての藩が恭順した。その後庄内藩も恭順したが最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。

 こうして庄内藩は、明治元年12月に領地没収。11代藩主・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥会津藩へ、翌明治2年6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも薩摩藩西郷隆盛の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた『西郷南洲翁遺訓』が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人荘内南洲会により南洲神社が運営されている。 

 また、庄内藩士の榊原政治と伴兼之は西郷に師事し西南戦争に参戦。ともに戦死しており、その亡骸は鹿児島市南洲神社に埋葬されている。なお、西南戦争で敗れた西郷は賊軍の将として官位を剥奪され、大日本帝国憲法発布の恩赦により名誉が回復されることとなったが、その恩赦運動の中心が旧庄内藩の人々だったとも言われている。西郷に感銘を受けおおいに慕うようになった旧庄内藩士たち。西郷の没後、旧庄内藩士たちがその思想や教訓をまとめ刊行した「南洲翁遺訓」。自らで全国を行脚しながら頒布し広めたという。これが西郷を全国に知らしめるきっかけになったと言っても過言ではない。

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※元庄内藩家老・菅実秀と西郷隆盛の「徳の交わり」像