ホリショウのあれこれ文筆庫

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第148話 天皇になろうとした将軍

序文・金閣寺だけでは飽きたらず、天皇の地位も狙っていたとは・・・

                               堀口尚次

 

 南北朝の動乱により、皇室と公家勢力の権力及びその権威が低下すると共に、室町幕府の成立以来、足利将軍家の権威は皇室に迫り、実質的に日本の君主としての役割を担った。とりわけ三代将軍足利義満は朝廷への影響力を強め、公武を超越した権威と権力を持つに至った。義満は、天皇・治天(じてん)〈国を治めること〉の代わりに、中国の明朝皇帝から「日本国王」として冊封(さくほう)〈君主と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係を伴う外交関係の一種〉を受け独自の外交を行っているが、これを国内的な君主号としての天皇の権威に対抗するためであり、簒奪(さんだつ)〈本来皇位継承資格が無い者が天皇の地位(皇位)を奪取すること〉の為の準備の一つであるとの説がある(ただし、貿易の利便性を高める為、冊封を受けたとの説もある)。

 晩年には、実子義嗣(よしつぐ)を親王に準ずる形で元服させた。義満が皇位簒奪を企てているとする論者は、義嗣を皇位に就かせ、自らは上皇(治天)に就く意図があったものとする。しかしその直後に義満は後継者不指名のまま急死し、四代将軍となった足利義持や幕府重臣により勘合(かんごう)貿易など義満の諸政策も停止された。義満の皇位簒奪説は、一方で皇統の正当性は血統により発生するという反論もあり、疑問視する声も根強い。しかし義満の死後、朝廷が「鹿苑院太上法皇〈出家した上皇〉」の称号を贈った事(義持は重臣らの反対もあり辞退)、相国寺過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記しているのは事実である。

 しかし現在では、義満の公家化は、朝廷側にも義満を利用しようという思惑があったとの考えが定説となりつつあるという。当時財政的に窮乏していた朝廷は、政治的安定や経済的支援などを得ようとした。権威の復興を図る朝廷と武家の中で足利家の権威をより高めようとする義満の意図が一致し、義満が公家化したとされる。なお足利将軍家は、清和天皇の子孫が臣籍降下(しんせきこうか)〈皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること〉した清和源氏の一流(河内源氏)であり、皇胤(こういん)〈天皇の男系子孫〉であるため皇室とは遠い血縁関係にあたる。武士で太政大臣に任命されたのは平清盛以来およそ230年ぶりで、歴代の室町幕府の将軍では義満だけである。皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君〈実権を持つ天皇家の家長〉となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味する。要は、天皇の父になろうとしたのだ。

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