ホリショウのあれこれ文筆庫

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第153話 水戸黄門なんて人はいない

序文・あの紋所は大勢持っていたぞ~

                               堀口尚次

 

 徳川光圀(みつくに)は、徳川御三家水戸藩の第2代藩主。官位が権中納言であり、権中納言唐名が「黄門」であることから、水戸藩の黄門で「水戸黄門」となったが、正式な呼び名は『徳川権中納言光圀』である。徳川家康の孫にあたる。

 一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の水戸藩主は、頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤が該当し、水戸黄門は7人いたということになる。

 水戸徳川家は参勤交代を行わず、江戸に定府しており、帰国は申し出によるものであった(常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる)。徳川幕府最期の将軍・徳川慶喜も、水戸藩出身である。

 光圀は、藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだ。さらに徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。

 同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊記が確立している。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来(なこそ)と熱海を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない。

 光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のため、頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。

 水戸黄門のトレードマークの紋所(もんどころ)「葵(あおい)の御紋」は、将軍家・御三家・御三卿・御家門・御連枝など、数多くの親藩大名に許されていたのだ。要は、徳川姓と松平姓を許されていた親藩には、「葵の御紋」は許されていたのだ。何も水戸徳川家の光圀の専売特許ではないのだ。 

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