ホリショウのあれこれ文筆庫

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第160話 河合継之助の意地

序文・勝てば官軍、負ければ賊軍。

                               堀口尚次

 

 河井継之助(つぎのすけ)は、幕末の越後・長岡藩の家臣。戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。最終役職は、家老であり軍事総督にも任命されている。藩主・牧野は、幕府の老中や京都所司代に就く名門。

 新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷に迫ると、継之助は、抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義〈相互不干渉〉の影響を受け、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。

 新政府軍監だった土佐藩岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。

 継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。

 継之助は、その後の北越戦争で負傷し、敗走の途上で息をひきとった。

 継之助の人物像として、徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。藩命に度々背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったが既に若い頃から藩の家老らの凡庸(ぼんよう)〈平凡で取柄がない〉さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。

 継之助の先見の明は、江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。その金で、相場が暴落した米を買って蝦夷地で開港されていた箱館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にイギリス人武器商人、アメリカ人武器商人などからアームストロング砲、ガトリング銃、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃などの最新兵器を購入していた。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた。〈ガトリング銃とは、機関銃のことである〉

 勝海舟西郷隆盛らも、継之助の人物像に感嘆していたという。

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※ガトリング銃