ホリショウのあれこれ文筆庫

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第161話 名古屋のバイオリン王・鈴木政吉

序文・ヤマハの創業者とも仲がよかったのだ

                               堀口尚次

 

 鈴木政吉は、安政6年生れのバイオリン製作者で、スズキバイオリン製造株式会社の創業者。尾張藩の同心だった父親の次男として生まれる。父親は琴・三味線作りを内職としていた。明治3年、政吉は藩の音楽隊太鼓役として年俸5両で出仕しているが、太鼓がラッパに変わったため失職した。藩から特待生に取り立てられ、藩立の洋学校に2年ばかり通学したが、制度が代わり学費の目途がなくなると退学した。政吉は、明治6年に従姉の嫁ぎ先である浅草並木町の塗物商に奉公に出たが酷使された。この店が閉店し、名古屋の両親のもとで、一人前の三味線職人となった。

 明治20年、政吉は愛知県尋常師範学校の音楽教師・恒川鐐之助のもとで唱歌を習い始めた。一月ほど経った頃、政吉は門人仲間の甘利鉄吉が持っていた日本製バイオリンを目にする。それは東京深川の松永定次郎が作ったものであった。バイオリンを作ったら売れるという甘利の言葉を聞いて政吉は作る決心をしたが、実物のバイオリンは少しの時間しか貸してもらえず、木材も入手できず、苦労を重ねることとなった。第1号は製作したが売れず、2号を経て、3号は1号の二倍の音量を出せるほど進歩した。翌年、自作のヴァイオリンが恒川の門人に売れたことで、政吉は自信を持った。

 名古屋区東門前町(現在の東区東桜)の貸屋でヴァイオリン製造を始める。同年には東京銀座の共益商社、大阪の三木佐助とも契約を結び販路を拡大した。その後、北側の家を300円を投じて購入、本格的な生産に入る。なお、政吉の弟子は7、8人いたが、いずれも彼の知人で、士族出身者であった。その後にはオリガン製作を行っていた山葉寅楠(ヤマハ創業者)と契約を結ぶ(その後も鈴木と山葉は交流を持った)。

 その後も製造技術研究を重ねた政吉の鈴木バイオリンは、海外でもいくつかの賞を受賞するようになった。明治中期にバイオリンの国内市場のシェアを8割に拡大し明治末には、鈴木バイオリンの製造は年間7304本という記録がある。

 昭和に入ってバイオリンの生産の状況は厳しくなった。昭和5年には、株式会社に改組し、鈴木バイオリン製造株式会社とし、本社は名古屋市松山町に置いた。その後に不渡りで倒産に追い込まれた。会社の倒産後、政吉は妻とともに東京都の借家に居を移したが、昭和9年愛知県大府町の工場の隣接地に移り住む。そこで亡くなるまで10年間、楽器の研究に打ち込んだ。

 尚、鈴木バイオリンでは、一時期ギターも製造している。ジャパン・ビンテージ・ギターとなっている。私はリサイクルショップで発見して購入したのだ。

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