ホリショウのあれこれ文筆庫

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第166話 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

序文・他力本願の他力とは、阿弥陀様のことなのだ。

                               堀口尚次

 

 悪人正機(しょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願〈他力本願〉による救済の根機(こんき)〈教えを受ける者にそなわっている素質・能力〉である」という意味。阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生(しゅじょう)〈人間〉である。すべての衆生は、末法濁世(じょくせ)〈濁(にご)り汚れた人間の世〉を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意味。

 「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞(しんらん)が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。

 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。

 親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。また自分のやった善行によって往生しようとする行為〈自力作善〉は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。

 すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」とするのが、「悪人正機」の本質である。しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。

 親鸞上人の思想は『阿弥陀様が第一に救済したい人は、自分はどうしようもない悪人であると、打ち萎(しお)れている人だ』と考えたい。

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親鸞聖人