ホリショウのあれこれ文筆庫

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第170話 和宮降嫁の行列は50km

序文・和宮の心中を慮(おもんばか)らずにはいられない

                               堀口尚次

 

 和宮(かずのみや)とは、和宮親子(ちかこ)内親王のことで、仁幸天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の正室〈御台所〉。家茂死後には落飾(らくしょく)〈出家〉し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。異母兄の孝明天皇の命により有栖川宮(ありすがわみや)熾仁(たるひと)親王と婚約する。

 和宮降嫁(こうか)〈皇女が皇族以外の男性に嫁ぐこと〉は、幕府の公武合体政策の一環で、冷え切っていた朝廷と幕府の信頼回復の為に、幕府が画策した、いわば禁じ手のような手法だ。和宮は、日本史上、唯一武家に降嫁させられたのだ。

 孝明天皇は、既に婚約者がいることなどから幕府の申し入れを辞退したが、幕府の再三の申し入れと侍従の岩倉具視の助言もあり、最終的に承諾せざるをえなかった。和宮も拒否し続けたが、降嫁を拒否するなら尼にならなければならないという条件を突き付けられて、泣く泣く承諾したのだ。

 こうして和宮一行は桂御所を出立した。東海道筋では河留めによる日程の遅延や過激派による妨害の恐れがあるとして中山道を江戸へと向かった。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km、御輿(みこし)の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員された。 和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。

 江戸城の大奥では、天璋院(てんしょういん)〈前将軍の正室薩摩藩島津家から嫁入りした篤姫(あつひめ)〉をはじめ、女中たちと折り合いが悪く、泣かされたようだ。

 こうした中、上洛していた将軍家茂が体調を崩し、大坂城薨去(こうきょ)した。和宮との結婚生活はわずか四年と短いものだった。

 和宮は、静寛院宮となり江戸城無血開城の裏で、徳川慶喜の助命と徳川家存続の為に朝廷に働きかけている。

 明治維新後は、病気のため32歳で亡くなるが、「家茂の側に葬(ほうむ)って欲しい」の遺言から、家茂と同じ増上寺に葬られた。近年、和宮墓所が発掘調査されると、棺の中から若い男性の写真乾板が見つかったが、保存状態が悪く男性の正体は不明である。仲が良かった夫の将軍家茂である可能性が高いが、元婚約者だった有栖川宮熾仁親王ではないかという指摘もある。ロマンスミステリー。

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