ホリショウのあれこれ文筆庫

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第171話 真珠湾攻撃での最後通告遅延の禍根

序文・日米開戦80年の節目の日に、長文になりますが寄稿します。

                               堀口尚次

 

 最後通牒(つうちょう)あるいは最後通告とは、外交文書の一つで、国際交渉において最終的な要求を文書で提示することで交渉の終わりを示唆し、それを相手国が受け入れなければ交渉を打ち切る意思を表明することである。

 一般的に国家間の国際紛争の場合は、相手が受け入れない時は交渉の打ち切りは軍事的な実力行使の段階に移ることを意味するため、戦争を宣言する行為に準ずるものとなる。

 太平洋戦争の開戦時には真珠湾攻撃〈こちらは本当に宣戦前の攻撃であったが〉と絡(から)めて、「日本は常に宣戦布告をせず、だまし討ちをする国である」と半日宣伝の材料に使われた〈日本人の史家にもこの論法を用いる者が少なくないため、反日宣伝だけとは言い切れないとする見方もある〉。ただし開戦に関する条約は第3項に総加入条項が付与されており、純粋な国際法を議論する際には注意が必要である。また米国内における大統領府の戦争責任問題に関する議論においては、ハル・ノート最後通牒であったという見方もある。

 なお、アメリカのフランクリン・ルーズベルト政権は、真珠湾攻撃の翌日の大統領議会演説の中で、日本側が交渉継続の姿勢を示し続ける裏で真珠湾奇襲のための機動部隊を進発させていたことをもって「騙(だま)し討ち」と非難しており、また遅れて交付された通告文書自体も交渉妥結が期待できないと述べているのみで武力行使の示唆がされていないとし、日本側が不手際で通告の直前交付に失敗したことを非難の主眼とはしていない。

 東郷外務大臣は対米宣戦布告をしなくてもよいと考えていた上に、開戦とほぼ同時にこのような大規模攻撃をかけるとは知らず、また11月30日開戦と思い込んでいて時間的にも余裕がないと考えていた。国際法自衛戦争であるならば宣戦布告は不要でもあった。しかし、途中で話がおかしいと気づいて開戦通告する方向に傾いた。

 東郷から駐米大使の野村宛に、パープル暗号により暗号化された電報は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。この暗号電報は「帝国政府ノ対米通牒覚書」本文で、14部に分割されていた。これは現地時間12月6日正午頃から引き続き到着し、電信課員によって午後11時頃まで13分割目までの解読が終了していた。14分割目は午前3時の時点で到着しておらず電信課員は上司の指示で帰宅した。14分割目は7日7時までに到着したと見られる。暗号電報は覚書の作成にタイピストを利用しないようにとの注意、暗号電報では覚書手交を「貴地時間七日午后一時」とするようにとの指示が書かれていた。朝に大使館に出勤した電信課員は午前10時頃に解読作業を開始し、昼の12時30分頃に全文書の解読を終了した。解読が終わったものから順に一等書記官の奥村により修正・清書された。覚書は現地時間午後2時20分に特命全権大使の来栖と大使の野村より、アメリ国務省において国務長官コーデル・ハルに手渡された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。

 この日本外務省の遅延調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎外交官の送別会をホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村が送別会後も大使館に戻って清書を行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村の英訳親書の清書・タイプが遅れたこと〈タイピスト利用が禁じられていたため〉、14分割目に「大至急」の指示が付されておらず覚書本文の続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。

 このような大使館のミスによる失態であるとの通説に対して、奥村とともに責任を問われることがある館務総括参事官の井口は生前に「自分の管掌事務ではなく承知していなかった」と主張していた。またその息子である井口・元ニュージーランド大使も、外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして、奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。要は官僚の、責任の擦(なす)り付け合いであろう、と私は解釈する。

 しかし一方でアメリカ側は、当時すでにパープル暗号の解読に成功しており、文書が手交される前に内容を知悉(ちしつ)〈詳細を承知する〉していた。国務長官ハルの回想には、12月7日の午前中に全14部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」とあり、そして「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」とある。さらにハルは通告が遅れたことについて、「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。(中略)野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、正一時に会いに来るべきであった」としている。 
 ルーズベルト大統領は12月6日の午後9時半過ぎに十三部目までの「帝国政府ノ対米通牒覚書」を読み、「これは戦争ということだね」とつぶやいたという。ルーズベルトに「対米覚書」を手渡したL.R.シュルツ海軍中佐の回想によると、この時のルーズベルトと側近のハリー・ホプキンズの会話は以下のように続く。

ホプキンズ:「われわれが最初の攻撃を加えていかなる種類の奇襲をも阻止することができないのは残念なことだ」
ルーズベルト:「いや、われわれにはそれができないんだよ。われわれは民主主義国で平和愛好国民だ。しかし、われわれにはいい記録がある」と。

 また「真珠湾攻撃陰謀説」もある、『①ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかった②ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮(おとり)にした③

ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った。』などだ。

 とまあ様々な説や回想禄が存在するが、真珠湾攻撃の現場では、米軍側で2403人が犠牲になり、日本側も64人が戦死しているのだ。

 宣戦布告の国際ルールは難解で、極東国際軍事裁判の判決では「この条約は、敵対行為を開始する前に、明確な事前の通告を与える義務を負わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから敵対行為を開始する間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない」「一切の事が順調にいったならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに二十分の余裕を与えただろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望する余り、彼等は思いがけない事故に備えて余裕を置くということを全然しなかった。こうして、日本大使館で通牒を解読し、清書する時間が予定より長くかかったために、実際には攻撃が行われてから四十五分も経ってから、日本の両大使は通牒を持ってワシントンの国務長官ハルの事務所に到達したのである」。と一方的な勝者の裁きどころか、アメリカに対して冷淡なものであった。

 12月7日の中日新聞に掲載されていた、真珠湾攻撃を体験した元米軍兵士の発言が感慨深い。「あの日の真珠湾日本兵がしたことは、命令に従ったまでのこと。立場が逆だったら私もそうしたはずだ。」目頭が熱くなった。追記で彼は、戦後中古車販売業を営んだが、終生にわたり日本車は販売しなかったという。「戦ったのはアメリカ人と日本人じゃないんだ。アメリカと日本とい国が戦ったのだ。」と思いたい。たとえ戦争の記憶が人々から薄れていっても、戦争の傷跡は癒(い)えない。

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