ホリショウのあれこれ文筆庫

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第175話 東洋のエジソン・田中久重

序文・すごい人がいたもんだ

                               堀口尚次

 

 田中久重は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

 幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。

 大阪で、天保5年に折りたたみ式の「懐中燭台(しょくだい)」、天保8年に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年に天文学を学び、嘉永2年には、優れた職人に与えられる「近江大掾(おうみだいじょう)」の称号を得た。翌嘉永3年には、天動説を具現化した「須弥山儀(しゅみせんぎ)」を完成させた。 その後も様々な西洋の技術を学び、嘉永4年には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘(じめいしょう)〈別名・万年時計、1000点を超える手作り部品〉」を完成させた。

 その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年、蘭学狂いといわれた藩主・鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方(せいれんかた)〈理化学の研究実験施設〉に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。また、軍事面では反射炉の設計〈改築〉と大砲製造に大きく貢献した。

 文久元年には佐賀藩三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐(がま)製造の担当となり、文久3年には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」〈御召浅行小蒸気船〉建造の中心的メンバーとなっている。これらの文献記録を裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鉄鋲(てつびょう)〈リベット〉が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物の可能性が高いと報告されている。元治元年には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。

 明治6年に、新政府の首都となった東京に移り、明治8年に東京に電信機関係の田中製造所を設立。これが後の芝浦製作所となり、東芝の基礎となった。

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