ホリショウのあれこれ文筆庫

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第181話 敵は本能寺にあり

序文・人間五十年・・・

                               堀口尚次

 

 本能寺の変は、天正10年6月2日早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件である。

 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主・織田信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造〈二条城〉に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃した。これにより信長、信忠を失った織田政権は瓦解。6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。

 明智光秀が謀反に至った原因として、いくつかの説がある。

甲州征伐を終えた後に諏訪で「我らが苦労した甲斐があった」と祝賀を述べた光秀に対して「おのれは何の功があったか」と信長が激怒し光秀の頭を欄干に打ち付けて侮辱した。衆人の前で恥をかかされた光秀は血相を変えたと云う

明智光秀徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話がある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う。

③信長の出陣命令を受けて居城に戻る際に光秀のもとに上使として青山吉次が訪れ、「(まだ敵の所領である)出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」と伝えたという話があり、それを聞いた光秀主従が怒り落胆して謀反を決断したと云う。

④光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城〈神尾山城か〉での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔(はりつけ)にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。

 この他にも数々の因縁が、逸話として残っており、真相は闇の中だ。「積極的謀反説」「消極的謀反説」「名分存在説・義憤説」「複合説」「主犯存在説」「従犯存在説」「黒幕存在説」「黒幕複数説・共謀説」など枚挙に暇がない。

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味になるが、織田信長明智光秀も『下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。』

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