序文・日本人は12歳の少年
堀口尚次
総司令官解任後の1951年5月3日から、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。
ここでマッカーサーは次の様に証言している。
『日本は産品がほとんど何もありません、蚕(絹産業)を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障の必要に迫られてのことでした。』とこのように発言し、日本が太平洋戦争に突入していったのは、決して侵略戦争ではなく、安全保障の必要に迫られての自衛戦争だったと証言しているのだ。
しかしながら、次の様な証言もしている。
『ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。』
この発言が多くの日本人には否定的に受け取られ、日本におけるマッカーサー人気冷却化の大きな要因となった。当時の日本人はこの発言により、マッカーサーから愛されていたのではなく、“昨日の敵は今日の友”と友情を持たれていたのでもなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを知ったという指摘がある。さらにマッカーサーは、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた」「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られかねない発言も行っていた。これらの発言で日本人に誤解を与えてしまった事は否めないが、吉田茂元首相は「日本人への期待度だ」と好意的に解釈したとされる。