序文・一人だって立派な人は立派
堀口尚次
多数決とは、ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法のこと。より多くの人間が納得する結論を導き出すこと、特定の人物の決定に委ねないことから、民主制と深く関連したものであり、民主制の中では手続き的妥当性から採用されていることが多いが、論理的には民主制において必須なものではなく、全員が納得するまで議論し続ける形の民主制もあり得る。
また、どんな2人を選びだしても、十分細部まで比較すれば、同一の意思を共有することはない。したがって、多数決には個々の意志の互譲や切り捨てが必ず伴う。単純な多数決は衆愚政治へとつながる危険性をはらんでいる。多数決はつねに少数意見の無視をともなう「多数派による専制」の側面があり「最大多数の最大幸福」〈功利主義〉がもたらす倫理上の負の側面をつねにはらむ。
多数決の正当性について、多数が必ずしも客観的に真実であり妥当なものを捉えられるものではない、とする批判がある一方で、少数説との比較において多くが相対的に良いと判断するものを選ぶことに最低限の正当性を認める発想がある。
日本においては、寺院などでも、多数決によって賛否を決める方法は古くからおこなわれていた。ただし、単純過半数で議論を決することはほとんどなく、目に見える程度の差が生じなければその案が採用されることはなかったという。
一方問題点として、評議員に平等の主権を前提とした場合、つねに少数意見〈少数利益〉が抑圧される危険性がある。「多数派による専制」。少数派の自治や多数派との盟約などが利用される。
多数を以てより優れた判断だと見なすことが、未来の予測を含む意思決定にとって正しいかどうか論証的にはわからない。1人の才能により価値が創造されることがあり、危機が回避されることがある。
互いに譲り合えない基本的な利益についての互譲をもたらすには、非常に長い時間と粘り強い議論が必要となるが、急進派による性急な意思決定により決定的な分断が生じる可能性がある。
かつて「朝まで生テレビ」で「暴力団対策法」について討論した時に、この法案は、国会では共産党まで含めて全党賛成で可決されたが、故・西部進氏や故・野村秋介氏らは、「日本人は暴力反対と聞けば、すぐ賛成となるが、数が多い事と、正当性とは何の関係もないのだ。一人でも、立派な人は立派だ。」と嘆いていたのを思い出した。民主主義の意思決定の基本である多数決には、落とし穴があることも考慮しておかないと、後で取り返しのつかないことになる。