序文・女の道は前に進むしかない
堀口尚次
天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所(みだいどころ)となった人物。薩摩藩分家の当主の長女として生まれ、従兄(じゅうけい)〈年上の従兄弟(いとこ)〉である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、江戸藩邸に入る。その後に右大臣・近衛忠煕(ただひろ)の養女となり〈外様大名の娘が将軍の正室になるのは異例なので格式を上げる必要があった〉、第13代将軍・徳川家定の正室となり、年寄の幾島を伴って大奥に入った。渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても最後尾は依然、藩邸にいたという。なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島に戻ることは無かった。
その後間もなくして家定が急死し、薩摩藩主の養父・島津斉彬までもが死去してしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9か月であった。家定の死を受け篤姫は落飾(らくしょく)〈出家〉し、天璋院と名乗ることになる。
家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂(いえもち)が14代将軍に就任することとなった。その後さらに幕府は公武合体政策を進め、朝廷から家茂の正室として皇女・和宮〈天皇の妹〉が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ。
和宮〈後に静閑院宮〉と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか不仲だったが、後には和解した。
徳川慶喜が大政奉還をするも、その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たされた。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力し、攻め上る官軍の西郷にも救済懇願の書状を書いている。そして、江戸城無血開城を前にして大奥を立ち退いた。
江戸も名を東京に改められた明治時代。鹿児島に戻らなかった天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、あくまで徳川の人間として振舞ったという。また、徳川宗家16代・徳川家達(いえさと)に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしていた。更には、自分の所持金を切り詰めてでも元大奥関係者の就職・縁組に奔走していた。
余談だが、日本人として初めてミシンを扱った人物と言われている。因みにミシンを贈ったのはペリー提督だという説が一般的である。