ホリショウのあれこれ文筆庫

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第201話 現存する奉安殿

序文・ここにもGHQの影が・・・

                               堀口尚次

 

 奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真〈御真影(ごしんえい)〉と教育勅語を納めていた建物である。正式名称は、「御真影奉安殿」である。

 御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される〈小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化〉。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。

 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。

 建築物としては様々なバリエーションが存在する。レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。小形ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインとした。ただし、このような頑丈な小建築は「湿気がこもる」という短所を持っており、御真影に染みを作って学校が始末書を提出するハメになることもしばしばあった。

 日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQ神道指令により奉安殿は廃止が決定。同月22日、文部省次官名による実施要領の発令、さらに1946年(昭和21年)6月29日付文部省次官通牒によって、全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。御真影は焼却されたほか、建物の多くは解体された。

 しかし、中央からの指示は「解体」や「破却」ではなくあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でもなお全国各地に存在している。使用用途は、神社の倉庫など地域の共同利用施設などで、北海道では1991年の時点で36棟が残存していた。

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※愛知県碧南市(筆者撮影)