ホリショウのあれこれ文筆庫

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第232話 天神信仰と牛

序文・最後は神頼みですか

                               堀口尚次

 

 天神信仰は、日本における天神〈雷神〉に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。

 本来、天神とは国津神(くにつかみ)に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神(ほのいかずちのかみ)と結び付けて考えられ火雷(からい)天神と呼ばるようになり、後に火雷神は眷属(けんぞく)〈同族〉として取り込まれ新たに日本太政威徳天(だいじょういとくてん)などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。

 藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この頃に描かれた『天神縁起』によれば、この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。

 江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。

 菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所太宰府天満宮〉の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使〈祭神の使者〉とされ臥牛(がぎゅう)の像が決まって置かれている。

 天神〈道真〉を祀る神社は天満宮天満神社、天神社、菅原神社、北野天神社、北野神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社ある。

 受験シーズンになると、賑わいを見せる神社の代表なのは、御存知の通り。学問の神・歌人としてから、境内に筆の石碑などを良く見かける。

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