ホリショウのあれこれ文筆庫

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第233話 小笠原諸島の歴史

序文・アメリカによる戦後統治は沖縄だけではなかった

                               堀口尚次

 

 小笠原諸島は、東京都小笠原村の行政区域を指す。東京都特別区の南南東約1,000kmの太平洋上にある30余の島々からなる。

 1593年〈天正20年〉信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼が伊豆諸島南方で3つの無人島を発見する。しかしその根拠となる『巽無人島記』の記述は、父島の大きさが実際よりもはるかに大きく書かれている上、オットセイが棲息しているなど亜熱帯の島ではありえない記述もみられるため信憑性は低い。

 1639年〈嘉永16年〉マティスクワストが指揮する、オランダ東インド会社所属のエンゲル号とフラフト号が2つの無人島を発見する。エンゲル島、フラフト島と命名され、エンゲル島は母島、フラフト島は父島と比定される。

 1670年〈寛文10年〉 紀州を出港した阿波国の蜜柑船が母島に漂着する。その後、長右衛門ら7人は八丈島経由で伊豆国下田に生還し、島の存在が祖もだ奉行所経由で幕府に報告される。2021年現在では、この報告例が日本人による最初の発見報告と考えられている。

 1675年〈延宝3年〉漂流民の報告を元に、江戸幕府松浦党の島谷市左衛門を小笠原諸島に派遣する。調査船富国寿丸は36日間にわたって島々の調査を行い、大村や奥村などの地名を命名した上、「此島大日本之内也」という碑を設置した。これらの調査結果は、将軍をはじめ幕府上層部に披露され、これ以降、小笠原諸島無人島〈ブニンジマ〉と呼ばれた。

 1727年〈享保12年〉小笠原貞頼の子孫と称する浪人の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求め、幕府に「辰巳無人島訴状幷口上留書」を提出して訴え出る。「辰巳無人島訴状幷口上留書」には父島、母島、兄島などの島名が記されており、各島の島名の由来となった。また小笠原島と呼ばれるのはこれ以降のことである。

 1876年の明治政府による領有宣言以前から外国より小笠原諸島に入植し、日本の統治下に置かれたあとも住み続けていた島民とその子孫を「欧米系島民」と呼ぶ。小笠原諸島が、1968年〈昭和43年〉にアメリカから日本への返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存している。アメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住したものもいる。

 戦後、アメリカ軍に統治されたのは沖縄だけではなく、小笠原諸島も同じだった。欧米系島民は米国市民権を求め、併せて父島の日本返還に反対する請願も行っていた。戦争は、こんなところでも様々な問題をはらんでいたのだ。

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