ホリショウのあれこれ文筆庫

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第238話 東照大権現・神様になった徳川家康

序文・日光東照宮に祀られたのは家康の遺言だった

                               堀口尚次

 

 権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。

 『本光国師日記』によると、家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という浄土宗の戒名がつけられた。この葬儀は神として祀られたため内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用、僧も近国からのみの参集であった。

 遺体は駿府の南東の久能山〈現久能山東照宮〉に葬られ、遺言通り、一周忌を経て関東平野の最北部にある日光の東照社に分霊された。天海指揮による日光への改葬説が、幕府文献などにも「改葬」と記述されていたため広く信じられてきたが、近年になってその矛盾を指摘する議論・研究が盛んとなり、日光へ運ばれた「神柩(しんきゅう)〈ひつぎ〉」の中に遺体はなかったとする説が有力となっている。

 神号は側近の僧侶の間で、権現と明神(みょうじん)のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道に則って薬師如来を本地とする権現とされた。この後、二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示され、また一説によると「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進された。日本大権現が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。

 また、東照社は、正保2年11月3日に宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮正一位の神階が贈られ、家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。現在も久能山東照宮の神廟を徳川家康墓所とし、他の霊廟としては日光東照宮において墓所を象(かたど)った神社としての奥宮、松平氏菩提寺である愛知県岡崎市大樹寺高野山にある徳川家霊台の安国院殿霊廟、また各地の東照宮に祀られている。

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