ホリショウのあれこれ文筆庫

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第242話 明治維新前からあった廃仏毀釈

序文・神仏分離が拡大解釈されてしまった

                               堀口尚次

 

 「廃仏毀釈」とは、大政奉還後に成立した新政府により、慶応4年に発せられた太政官布告〈通称「神仏分離令」〉、および明治3年に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し、暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

 日本政府の神仏分離令や大教宣布は、あくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動〈廃仏運動〉が全国的に発生した。特に長年仏教に虐げられてきたと考えていた神職者たちは各地で仏教を排撃し、仏像、経巻、仏具の焼却や除去を行った。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が仏教の排斥につながった。廃仏毀釈神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

 江戸時代前期においては、儒教の立場から神仏習合を廃し、神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

 光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

 また同時期に勃興した国学においても、神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになり、平田篤胤が営んだ書斎兼私塾「気吹舎」門人の中には廃仏毀釈に関わる者もいた。

 廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属で、天保通宝を密かに偽造し軍備の拡充を図った。

 水戸藩薩摩藩佐幕派倒幕派だったが、廃仏派としては共通していた。

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