ホリショウのあれこれ文筆庫

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第245話 人生は雨の日の托鉢

序文・雨はいつかあがるもの

                               堀口尚次

 

 かつて、大手企業の重役から脱サラして僧侶になった人の著作「人生は雨の日の托鉢」を読んだ。彼は若い修行僧に混じって還暦過ぎの雲水(うんすい)となった。

 生きていれば、楽しい事や楽な事ばかりではなく、辛い事や苦しい事もある。親しい友人との別れや恋しい人との別れもあろう。裏切られたり、辛酸をなめさせられたりもする。病に掛かったり、傷を負ったりもする。

 人生を登山に喩(たと)えて、頂上を目指して一歩ずつ登って行き、いつか下りをのんびりと下ればいいと考える人もいれば、死ぬまでが登りだと言う人もいる。

 曹洞宗の修行僧の雲水には、修行の一貫としての「托鉢行」がある。「托鉢」とは、仏教の修行形態の1つで、信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞(こ)い、街を歩きながら、または街の辻に立ち、信者に功徳を積ませる修行。乞食(こじき)行ともいう。勿論、雨の日も雪の日も休みはない。

 仏教では、布施(ふせ)をすることで功徳が得られると教えている。だから、修行僧にお布施をすることで功徳が得られるのは、布施をした信者の方になる。満員電車でお年寄りに席を譲った際に、お年寄りが「譲ってくれてありがとう」となるのが一般の考えだが、仏教が教えることろでは、席を譲った人〈施(ほどこ)しをした人〉に功徳があるので、「坐ってくれてありがとうございます」となる。

 仏教には、「喜捨(きしゃ)」という言葉もあり、「よろこんで捨てさせていただく」という意味だが、実践するのは難しい。いらない物なら簡単に捨てる事も可能だが、この「喜捨」の場合は、自分の一番大事なものでもよろこんで捨てることができるかという問いかけだ。要は、物への執着をなくしていき、究極は考え方にも執着を無くして行くということだ。

 雨の日に、誰にも見向きもされない中、乞食の様に街角に佇(たたず)んだり、物乞(ものご)いの様に無視されても鉢を持ち立ち続けることができるだろうか。しかし、人生にも晴れの日もあろうし、雨の日もあろう。自己への執着心さえなくなれば、他者への慈悲の心が芽生え、心からの施しが出来るのかも知れない。

 宮沢賢治は、「雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・人カラデクノボウトヨバレ・・・ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」と謳った。彼は日蓮宗の信者だったようだが、「雨の日の托鉢」を体現した人生だと思う。私は、悲しい日があったら、涙が止まらい日があったら、「人生は雨の日の托鉢」を思い出している。

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