序文・その他大勢では終わらない
堀口尚次
吉田松陰は、江戸時代後期の日本の武士〈長州藩士〉、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。
嘉永6年、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた。その後に、藩主に意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処することを説いた。
嘉永7年、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、旗本の川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった。長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。
その後、出獄を許されたが幽閉の処分となる。そして「松下村塾」を開塾し、高杉晋作・伊藤博文・久坂玄瑞・山縣有朋・前原一誠などの面々を教育した。
安政5年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、「間部要撃策」を提言する。「間部要撃策」とは、老中首座・間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、公家・大原重徳と参勤交代で伏見を通る長州藩主・毛利敬親を待ち受け、京に入る「伏見要駕策」への参加を計画した。久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは「伏見要駕策」に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、「間部要撃策」や「伏見要駕策」における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽発起論を唱えるようになる。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
その後、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。松陰は老中暗殺計画である「間部要撃策」を自ら進んで告白してしまう。この結果、松陰に死罪が宣告され、安政6年江戸伝馬町牢屋敷にて執行された。享年30(満29歳没)。 辞世の句は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」現代語訳は、『私の身がたとえ武蔵の地で朽ちてしまったとしても、大和魂だけはこの世に留めおきたいものだ。』更に「志を立てて以って万事の源となす=志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない」という言葉も残している。