ホリショウのあれこれ文筆庫

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第266話 宮城事件「八・一五事件」

序文・玉音放送の裏側で

                               堀口尚次

 

 宮城事件(きゅうじょうじけん)は、昭和20年8月14日の深夜から15日にかけて、宮城〈皇居〉で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれる。日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊用いて宮城〈皇居〉を占拠した。しかし陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

 8月15日午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長により身柄を拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部で第二総軍参謀白石中佐(森師団長の義弟)と会談中であった師団長森中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされるが、畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した。

 最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けたが、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自決した。また古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自決した。午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。

 そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。

 他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木陸軍大尉をリーダーとして、勤労動員中の横浜高等工業高校(佐々木の母校)の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼枢密院議長、木戸幸一内府、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った。

 事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法・刑法に違反する行為を行ったにもかかわらず、敗戦によって彼らを裁くべき軍組織が解散させられたため、軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。

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