ホリショウのあれこれ文筆庫

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第270話 零戦を造った中島の気概

序文・ここにもGHQの影が

                               堀口尚次

 

 中島飛行機株式会社は、大正6年から昭和20年まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。創業者は中島知久平(ちくへい)。

 エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。

 中島飛行機は、太平洋戦争末期の日本本土空襲においては主要攻撃目標とされ、多くの工場は戦略爆撃で破壊され、さらに壊滅を免れるための疎開作業で生産は停滞した。昭和20年には第一軍需工廠となり、事実上の国営企業となり敗戦を迎える。敗戦までに中島は計29,925機の航空機を生産した。

 戦後はGHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないよう12社に解体された〈この中に現在の電動工具メーカーのマキタも含まれる〉。中島の後身である富士重工業〈現社名SUBARU〉はかつての航空機技術者ともども自動車産業に進出〈スバル〉、さらに昭和25年代には念願の航空機産業に参入している〈富士重工航空宇宙部門〉。富士重工業はその創立を昭和28年とする一方で、創業は「中島知久平」が「飛行機研究所」を設けた大正6年としている。

 中島は軍務を退き、飛行機報国を念じ「飛行機研究所」を創設するにあたって、以下の内容の手紙を関係者に送っている。『思うに日本の防衛はお金の掛からない新兵器を基礎とした戦い方を見つけてゆくしかない。戦艦一隻を建造するには莫大な費用がかかるけれども、飛行機なら戦艦一隻の費用で三千機が作れる。(これに魚雷を積めば)その力は戦艦よりも優れている。飛行機は1月で完成する。だから民間なら1年に12回計画を変更できる。しかし国営は1年単位の予算計画だから年1回だ。日本の飛行機工業は官営で民間企業中心の飛行機先進国の欧米と向い合っている。今、民営飛行機会社を作り官営中心の流れを変えなければ国家の運命はどうなるのだろう。※口語訳 』

 有名な零戦零式艦上戦闘機〉は三菱重工の開発だが、生産の6割は中島飛行機だ。現在のスバル自動車は、零戦の血を引き継いでいるのだ。

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