序文・私の心に宿る鬼退治
堀口尚次
よく、「きれいごと言うなよ」とか、「偽善者め」とか、「青臭いなあ」とかいう言葉を耳にすることがあるが、こういう発言をする人に限って、往々にして建前ばかりを前面に出す、偽善者であることが多い。
本心からきれいごとを言っている人は、本当に強い人であり、汚いことを心から憎んでいる人だからだ。他人から偽善者と言われようが、善行を行ったことは事実なのだから、何もしない人よりましなのだ。正論ばかり振り翳(かざ)すことで青臭いと虐(しいた)げられるが、正論がから間違っていないのだ。
体罰は禁じられているし、いけないことに決まっているが、『体罰〈暴力〉=即悪なのではなく、親や先生が子供や生徒を叩いていい場面もあるのだ。』と故西部邁氏が発言していたことを思い出した。但し、世の中は本音と建前で成り立っており、特に日本社会の秩序はこの建前のお膳立てのお陰で、物事がスムーズに進行してきた歴史がある。
本音や正論は、振り翳すのではなく、そっとしまっておいたほ方が美徳とされた経緯がある。「能ある鷹は爪を隠す」の諺(ことわざ)しかり、伝家の宝刀は抜いてはいけないのだ。勿論、ここぞという場面では刀を抜くわけだが、宝刀を持っていること自体を見せびらかさないことに能があるのだ。
「建前ばかり言う奴は、腹が立つものだ。」というセリフを聞いたことがある。山田太一脚本のNHKドラマ「男たちの旅路」での主人公のセリフだが、こんなセリフもあった。「あまっちょろいと言うかもしれないが、人間にはきれいごとを押し通す力というものがあるんだ」「世の中こんなものだ、うまく立ち振る舞った者の勝ちだなんて、みんながそんな風に開き直ってしまったらどうなる」と戦争体験を持つ主人公は、戦後生まれの若者に語りかけていた。
本音ばかりで生きていたら、風当りも強いし世の中上手く渡っていけない。かといって建前ばかりでは、信用もされないし信頼は生まれないだろう。要は、本音と建前の狭間でどうやって生きていくかだ。
本音は振り翳さず、そっとしまっておき、建前を乱発しないことが肝心なのかもしれない。世知辛い世の中だからこそ、渡る世間は鬼ばかりなのか。その鬼は他人ではなく、自分自身の心に宿っているということを肝に銘じ、鬼退治に出かけてみるとするか。