ホリショウのあれこれ文筆庫

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第277話 島津久光の抵抗

序文・幕末薩摩の光と影

                               堀口尚次

 

 島津久光は、幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。幕末四賢候の一人で第11第薩摩藩主・島津斉彬は異母兄であり、第12第藩主・島津忠義は久光の長男である。久光は藩主の父であることから「国父(こくふ)」と呼ばれた。

 西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年の率兵上京時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分〈徳之島、のち沖永良部島に配流〉にし、藩内有志の嘆願により元治元年に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、両者のあいだには齟齬(そご)があり、最後まで生涯にわたり完全な関係修復はできなかった。

 江戸での幕府への要求を成功させて、東海道を帰京の途上、生麦村〈現神奈川県〉でイギリスの民間人4名と遭遇し、久光一行の行列の通行を妨害したという理由で随伴の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こる。このイギリス人殺傷の一件は結果的に、翌文久3年の薩英戦争へと発展する。

 西郷や大久保らが主導するかたちで、明治4年騙し討ちのように廃藩置県が断行されると、これに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。しかし、権力の源泉である兵士を御親兵に奪われ、行政権も既に奪われておりどうにも〈この程度の抗議しか〉できず、後の祭りであった。

 以後、鹿児島で隠居生活を送った。また、依然として政府による廃刀令等の開化政策に対して反発を続け、生涯髷(まげ)を切らず、帯刀・和装をやめなかった。

 明治10年西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、政府は久光の動向を憂慮して勅使・柳原前光を鹿児島に派遣し上京を促したが、久光は太政大臣三条実美への上書において中立の立場にあることを表明、代わりに四男・五男を京都に派遣する。また戦火を避けるため、桜島に一時避難している。

 こののちも政府は久光の処遇に苦慮し、叙位叙勲や授爵において最高級で遇した。政府は久光に気を使っていたが、西郷と大久保が死んだあとはそれもなくなった。そして最後まで西郷、大久保に騙されたと言い続けたといわれている。

 幕末を裏で動かした久光の、「最期の抵抗」はわかるような気がする。

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